本を読むときに、筋を追うということも大事ですが、
筋には関係なく、文章の心地よいリズムに、身をゆだねるのも、
時には楽しいことです。
詩人の蜂飼耳さんのエッセー集、
『空を引き寄せる石』(白水社)は、そんな本です。
蜂飼耳さんの日本語のリズムに身をゆだねることが気持ちいい。
蜂飼さんの日本語に、ゆらり揺られて、
気がついたら、今まで誰も表現しなかった場所に、
いつの間にか連れて行かれている――そんな感じです。
この人は、どこまで日本語の可能性を広げていくのでしょうか。
どこまで、わたくしたちを連れて行ってくれるのでしょうか。
とても、気になる人です。
*
あなたも、身をゆだねてみませんか。
空を引き寄せる石
|
本、旅の先で、ものをみつめるゆるぎなき眼で書かれてあります。どのエッセイも2・3ページで、無駄な言葉はひとつもありません。一字一句をのがさないように、蜂飼さんに必死でついていくように読みました。詠うようなエッセイです。
『詩人という語は、気障かつ滑稽なニュアンスで使われがちだ。けれども、詩を書く人間たちは、必ずしも花鳥風月を愛でて眠り込んでいるわけではなく、自分の感情を吐露するためにだけ書いているものでもない。言葉の手を握って、引いて、普段の場所から連れ出し、新しいものの見方を示すもの、それが詩だ。』
『言葉が縮める距離を見たい、といつも思っているけれど、言葉は、指し示すだけで縮めはしないのかもしれない。縮めるのは、生きているひとの心拍、滞ることのない血流、気温に合わせて下がりはしないこの体温なのかもしれない。』
『詩人という語は、気障かつ滑稽なニュアンスで使われがちだ。けれども、詩を書く人間たちは、必ずしも花鳥風月を愛でて眠り込んでいるわけではなく、自分の感情を吐露するためにだけ書いているものでもない。言葉の手を握って、引いて、普段の場所から連れ出し、新しいものの見方を示すもの、それが詩だ。』
『言葉が縮める距離を見たい、といつも思っているけれど、言葉は、指し示すだけで縮めはしないのかもしれない。縮めるのは、生きているひとの心拍、滞ることのない血流、気温に合わせて下がりはしないこの体温なのかもしれない。』
「厄を割る石」なるものが、久しぶりに参った神社で、変貌を遂げていたのである。これまでは普通の庭石にすぎなかったのが、「ありがたい石」に格上げされていたらしい。素焼きの盃を取り、石に叩きつけて割る。呪いの厄割りである。壊して気分がさっぱりになる。初穂料として百円置くことになっている。罰が当たるかどうか知らない。これまで、そこにのんびりしていた石が「石は終日ちぢこまり、伸び伸びしたところがないので、もはや石らしくない」というような感情移入した表現が見受けられて面白い。以上、「石の変身」と文題を付けているエッセイのまとめである。
さて、表題作は「空を引き寄せる石」の分量は僅か1ページにすぎない。「旅先でも、そうでなくても、つい石を拾ってしまう」と書き出し。机の上には、文鎮のような石がたくさんたまっているという。屋外に捨てれば、その瞬間から文鎮ではなくなるものである。いつかは雨や風の中にもどっていく石を手に包むと温かくなる。そんな他愛もないことが書かれているようだが、ここで一つ読み落としてはならないことがある。神話のことで「最初の人間は神がバナナと石とどちらを選ぶか問われたとき、永遠の命を得る石を選ばなかったがためにはかない命になったという。「存在の不思議」を石に感じていて、上掲の「石の変身」と一対のエッセイとして読み取るべきテーマを含み、哲学を感じさせる好エッセイーである。
さて、表題作は「空を引き寄せる石」の分量は僅か1ページにすぎない。「旅先でも、そうでなくても、つい石を拾ってしまう」と書き出し。机の上には、文鎮のような石がたくさんたまっているという。屋外に捨てれば、その瞬間から文鎮ではなくなるものである。いつかは雨や風の中にもどっていく石を手に包むと温かくなる。そんな他愛もないことが書かれているようだが、ここで一つ読み落としてはならないことがある。神話のことで「最初の人間は神がバナナと石とどちらを選ぶか問われたとき、永遠の命を得る石を選ばなかったがためにはかない命になったという。「存在の不思議」を石に感じていて、上掲の「石の変身」と一対のエッセイとして読み取るべきテーマを含み、哲学を感じさせる好エッセイーである。



