深層心理、というか…、人間というものを透かして見たような物語です。
登場人物はどれもそこまで深い描写をされているわけではないけれど
なんとなくの雰囲気でしょうか?なぜか現実味があるのが面白い。
文字面は非常にステレオタイプなのですが、なんかわかる。
空気感のみで表現されているというか…。
でもこれを理解できるのは世代によるかもしれません。
ある程度現代っ子(笑)でないと感じないかも。
非常に映像的です。空間と時間を切り取る描写、でしょうか。
物語は最後に別視点が登場することで大きく転換するわけですが、
この作品の(というかこの作者の、でしょうか)の私が好きなところは
それでも、それまでの視点を否定しないところです。
なんというか、それはそれ、これはこれ。みたいな。
物事は何でも、別の視点から見れば別なものに見えるのは当然のこと。
どちらかが正しいとかではなく。
これで別視点だけがホンモノだとか言うとただのニヒリストですが
そうではないところがとても好感が持てました。
吉田さんのほかの作品も、全体的に同じ姿勢な気がします。
これでもっと成長されたら、すごい作家さんになりそうです。
描写とか、表現とか。
楽しみ。
パレード (幻冬舎文庫)
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都内の2LDKのマンションで共に生活をする4人の男女達の物語。
それぞれの人物が順番にモノローグで語る自分自身のこと、
各々の目から見た他の登場人物のこと、そして一見平凡な共同生活のこと。
読み進むにつれてその空間にどんどん引きずられていき、
気付けば自分もそこの住人になっていた、という感覚でラストを迎えてしまった。
その暮らしを「インターネットでチャットをしているようなもの」と言う者もいれば、
「ここで暮らしている私は、間違いなく私が創り出した『この部屋用の私』である」と言う者もいる。
家庭用の自分、職場用の自分、友達用の自分、
誰でも「その場」に適応する自分を自ら創り出して演じているのかもしれない・・・
偽っているわけではないけれど、しかし「ここではこの自分でいるのが最も適している」
と思うことは確かにあるし、ものすごく納得できる。
そしてこの話は、そのような生活の中にある「落とし穴」という表現が最もしっくりくるな、と最後に思った。
それぞれの人物が順番にモノローグで語る自分自身のこと、
各々の目から見た他の登場人物のこと、そして一見平凡な共同生活のこと。
読み進むにつれてその空間にどんどん引きずられていき、
気付けば自分もそこの住人になっていた、という感覚でラストを迎えてしまった。
その暮らしを「インターネットでチャットをしているようなもの」と言う者もいれば、
「ここで暮らしている私は、間違いなく私が創り出した『この部屋用の私』である」と言う者もいる。
家庭用の自分、職場用の自分、友達用の自分、
誰でも「その場」に適応する自分を自ら創り出して演じているのかもしれない・・・
偽っているわけではないけれど、しかし「ここではこの自分でいるのが最も適している」
と思うことは確かにあるし、ものすごく納得できる。
そしてこの話は、そのような生活の中にある「落とし穴」という表現が最もしっくりくるな、と最後に思った。
様々な事情から独りでは生活していくことができないため本当の自分を隠しながら「この部屋用の私」(130頁)として共同生活に入り、自己を抑制しつつ他の同居人に一応上辺だけは合わせて、しかしそれはそれで何となく充実的に生きてきた4人の人生の実相が、トリック・スターの登場で、暴露されるというストーリー。読み始めてすぐ何か背筋に寒いものが走りつつも、途切れのない緊張感をもって一気に読まされ、最終章でガツンと頭をぶん殴られたかのような刺激作。多くの現代人が多分抱え込んでいる筈のボッカリとした「虚無の世界」の存在を赤裸々に感得させる作品である。(タッチとしては、昔読んだJeffrey Eugenidesの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』を思わせた。)
結局、相馬未来はハワイへ、杉本良介と大垣内琴美は故郷へ、それぞれ散って行くのであろう。(にしても、良介が持っていた五本目の鍵(275頁)は、どこを開けるためのものだったのか。)
カバーに記された粗筋に目を通さず、先入観なく虚心にそのこわさを味わってほしい。(但し、正直いって伊原直輝の人物描写から得られるその人物像と作中行為の必然性(連関性)は今一つよく分からないところがある。)
結局、相馬未来はハワイへ、杉本良介と大垣内琴美は故郷へ、それぞれ散って行くのであろう。(にしても、良介が持っていた五本目の鍵(275頁)は、どこを開けるためのものだったのか。)
カバーに記された粗筋に目を通さず、先入観なく虚心にそのこわさを味わってほしい。(但し、正直いって伊原直輝の人物描写から得られるその人物像と作中行為の必然性(連関性)は今一つよく分からないところがある。)
まあ、それなりにいろいろ事情があって、同居することになった5人の若者の、
本音と建前
重たくもあり軽くもあり、
大変でもあり、何てことないようでもあり、
第15回山本周五郎賞受賞作なんですが、
ある意味では、「ホラー」のような気もしましたよ。
読んで損はないと思います。
本音と建前
重たくもあり軽くもあり、
大変でもあり、何てことないようでもあり、
第15回山本周五郎賞受賞作なんですが、
ある意味では、「ホラー」のような気もしましたよ。
読んで損はないと思います。
読み終わって、思ったのは。「はぁ、なんだ。そっちで落としたか。」ということ。
意外といえば確かに意外だけど、唐突といえば唐突。
川上弘美が解説でいうほど「怖い」とはおもわない。どちらかというと
「そう来ましたか・・」
カタストロフィをもっともっと心理的なところに持って行くことも出来たのでは
ないかなぁ。そっちのほうが多分怖い。というか、結局また血に逃げたな。
という気がした。
そのこと(読まないとわからない)が明らかにされた後の同居人たちの行動に
関しては、家の中で起きたことに関しては敏感な彼らは、それを離れたところで
起きたことに関しては、踏み込んでこない。その線を越えることはない。という
ことを考えれば、納得がいく。
とはいえ、部屋を共有する彼らの付き合い方は決して上辺だけではないとおもう。
ただ、芯に踏み込まないだけ。
芯に踏み込まないというと、上辺だけというのとは絶対ちがう。
本人にも分からないその「芯」には、それゆえ本人ですら踏み込めないのだ。
人間は、ある場所にいればある役割・機能を果す。それは演じているのでは
なくて、それは生きているということだとおもう。
会社の自分、恋人との自分、一人の自分、家族の中の自分。
全部ちがう自分。でも全てが自分なのだ。
自分の知っている自分。他人の知っている自分。それはちがう自分。
でもどちらも自分なのだ。この相対化された世界に中心なんてない。主人公も
脇役もいない。みんな、ただその役割・機能を果しているだけ。
そんな世界では、自分らしさも絶対的なものではなく、ある役割・機能の中に
存在する相対的なもの。そして、その役割・機能は「場」が代われば
自分らしさも変化する。変化することに自分の意思は必要ない。必要なのは受容。
そういう文脈で読むと、我々読者の知っている彼らは、吉田修一の知っている彼らと
もちがうし、彼ら自身の知っている彼らともちがうんだ。
吉田修一がいくら登場人物の言葉を借りて繰り返していたのは、そういうことの
ような気がする。
意外といえば確かに意外だけど、唐突といえば唐突。
川上弘美が解説でいうほど「怖い」とはおもわない。どちらかというと
「そう来ましたか・・」
カタストロフィをもっともっと心理的なところに持って行くことも出来たのでは
ないかなぁ。そっちのほうが多分怖い。というか、結局また血に逃げたな。
という気がした。
そのこと(読まないとわからない)が明らかにされた後の同居人たちの行動に
関しては、家の中で起きたことに関しては敏感な彼らは、それを離れたところで
起きたことに関しては、踏み込んでこない。その線を越えることはない。という
ことを考えれば、納得がいく。
とはいえ、部屋を共有する彼らの付き合い方は決して上辺だけではないとおもう。
ただ、芯に踏み込まないだけ。
芯に踏み込まないというと、上辺だけというのとは絶対ちがう。
本人にも分からないその「芯」には、それゆえ本人ですら踏み込めないのだ。
人間は、ある場所にいればある役割・機能を果す。それは演じているのでは
なくて、それは生きているということだとおもう。
会社の自分、恋人との自分、一人の自分、家族の中の自分。
全部ちがう自分。でも全てが自分なのだ。
自分の知っている自分。他人の知っている自分。それはちがう自分。
でもどちらも自分なのだ。この相対化された世界に中心なんてない。主人公も
脇役もいない。みんな、ただその役割・機能を果しているだけ。
そんな世界では、自分らしさも絶対的なものではなく、ある役割・機能の中に
存在する相対的なもの。そして、その役割・機能は「場」が代われば
自分らしさも変化する。変化することに自分の意思は必要ない。必要なのは受容。
そういう文脈で読むと、我々読者の知っている彼らは、吉田修一の知っている彼らと
もちがうし、彼ら自身の知っている彼らともちがうんだ。
吉田修一がいくら登場人物の言葉を借りて繰り返していたのは、そういうことの
ような気がする。



