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悲望
小谷野 敦
価格: ¥1,575 (税込)

単行本
出版社: 幻冬舎
発売日: 2007/08
ISBN: 4344013670
おすすめ度:4.0
Amazon ランキング: 223922位
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著者は評論家に留まるべし
ハッキリ言って駄作である。なぜ『文學界』になど載せられたのか首をかしげるほどだ。文体も随想文のようで、とても小説の体をなしていない。途中で何度も投げ出そうと思った。とくに表題の内容は臭気フンプンたる狭い学歴エリート社会内の子どもじみた「ストーカー物語」にすぎず、小説としての奥行きや広がり、さらにフィロソフィーさえも感じられない。鼻につくような会話や無媒介に使われる数々の「業界用語」には著者の経験世界の狭さを感じさせられる。「あとがき」なども全く蛇足で、それは独りよがりに堕した著者の気負い以外の何ものでもない。奇しくもその「あとがき」で著者は小説の才能がなくて文学研究者を目指した旨を告白しているが、まさにそのとおり、小説家には不向きであることを本書が証明してしまった。出版社もただ著者の知名度のみで出版したのではないか。やはり著者は評論家たるに留まるべきことを示した一冊である。ちなみに私は著者の評論は嫌いではない。
仮借なく愚を描く
著者は人間の愚かさを仮借なく描き切ることに成功している
表題作「悲望」では童貞の勘違いストーカー男の愚鈍さ
「なんとなく、リベラル」においてはリベラル気取りの偽善的インテリ女の愚昧さ
ともに著者自身の実体験が基になっているのであろう、リアリティも充分である

筆致の冷酷さ、容赦なさは徹底しており、恐怖さえ覚える
本作を読めば、著者が優れた批評眼を持つ一流の批評家であることがわかる
登場人物を道徳的に非難する輩もいるそうだが、そんなことをしても何の意味もない
人間の愚かさが本作のテーマなのだから
「悲望」の方は、『もてない男』増補版に収録したらいいと思う
 書名にもなっている「悲望」と、「なんとなく、リベラル」の2作が収められている。何しろ著者はあのコヤノだし、帯にも「実録東大ストーカー物語」(当然、『東京大学物語』を意識してる)とあるので、ほぼ事実に違いないと期待させるが、実際に読んでみても、特に「悲望」はソノママって印象。学者の世界は経歴から個人を特定しやすいし、読者も学界ゴシップに興味津々の層だろうから、やっぱスキャンダラスだろうと思う。モデルにされた方は、たまったもんじゃないよネ。
 「悲望」は女性に縁のない超一流大学院生が先輩に恋して、断られても断られてもつきまとい、後を追ってカナダにまで留学する話(追って来られた側にすれば恐怖だったろうナ)。昭和と平成を跨ぐ頃の時代設定(って言うか、実体験だし…)。これを本人が語り手となって回顧するのだが、「今の私が、若い男から、こういう女性に恋をしているんです、と相談されたら、そんな女はやめておけ、と言下に答えるだろう」(p52)とか、「これには、やや犯罪的なものを感じる」(p64)とか、「こういう男は、一度徹底的に崩壊したほうがいいのだ」(p87)とか、「この挨拶を素直に『さようなら』と受けておけば(中略)、会話程度はできる関係に戻っていただろう」(p98)とか、自分の人生を小説のように読んで批評する。ちょっと将棋の感想戦みたいなところもある。
 「なんとなく、リベラル」は、もちろん『なんとなく、クリスタル』のモジリで、注もそれなりについている。主人公の女性英文学研究者は米国留学して二重国籍の韓国人と初体験し、帰国後は在日の研究者と結婚(この辺りの描写、悪くない)。セクハラ問題をめぐって勤務先の大学で苦い経験もし、その後9・11テロと日本の海外派兵(アメリカの影!)をキッカケにいよいよ左傾していくのだが、大学教員としての既得権益を手放すつもりはないし、天皇制に対する立場も曖昧で、要するに「なんとなく、リベラル」。著者自身は菰田という、主人公から「ヤな奴」と思われてる男として登場するのだが、ラスト、主人公の人当たりの良さの裏面に隠された酷薄さを照らし出す鏡となる。ちょっと金井美恵子のテイストも入ってるかな。
「小説は美しければいい」と断言した三島由紀夫、的視点からみれば、
 芥川賞候補になるには、最低でも梶井基次郎の『檸檬』を読んで「美文」と感じ取るだけの「文学性」を身に付けていなければならない、という一つの基準がある。『檸檬』を三度読んでも一向に「美文」とは感じなかった私でさえ、「いくらつきあいがあるからといって『文学界』はないだろう」と苦笑した。
 その一方で、大方の芥川賞作品はおしなべてクソオモシロクナイ、という基準もあるので、『悲望』が候補に挙がらなかったのは順当だろう。(芥川龍之介の小説は十分オモシロイから、彼はあの世で「その賞から儂の名をはずせ!」と憤怒しているにちがいない。)
 確かにおもしろくは読めた。ストーカーにならずにいられないほどの相手に恵まれた著者は幸せだ。が、これは二十年前の出来事を描いているわけで、長遠の時の経過の助けを借りて「薄気味悪い告白小説」を「良質なユーモア小説」へと見事に昇華させている。
 ただし、「ユーモア小説」として読むためには、読者は著者と同等の体験をした者に限られるかもしれない。著者はそのストーカー的心理状態を「一神教」と論究しているようだが、もてない男の場合は彼女のどこを愛すのかといえば、「彼女が彼を好きになったと彼に思い込ませた部分」に他ならない。それがすべてであって、彼女の性格や仕草や容姿や高学歴などはそのことを忘失させるための小道具にすぎない。(稲垣足穂が『弥勒』のなかで、「相手の人格や気立や思想に恋するなどは嘘である。誰しも先方の眼や口元のちょっとした癖に惚れ込むのである。中には先方の靴の釦にすら恋愛する者が居る」と助言している。)
 いずれにせよ、ストーカーになるには「自分よりも相手の方を愛せる滅私の心」が必要だ。(エゴイストは保身に走るゆえにストーカーにはなれない。)みっともない、なさけないと分かっていても、そうせずにいられないのがストーカー的精神情態なのだから。だとすると著者の「生命」の中には超特大の「愛の核」が潜んでいる事になる。「核」は用途を誤れば多くの命を奪ってしまう。平和利用に徹してもらいたいものだ。
恋愛弱者のバイブル
 これほどまでに赤裸々に男の片思いを描いた本があっただろうか。それが「文学」かどうかは別として、恥も外聞も捨てたキレイごとのない(恋愛弱者の)男の本音100%の直球である。この点では『布団』以上であろう。そのあまりの露骨さ、独りよがり具合にこの本で描かれるような経験の無い、すなわち恋愛弱者でない男女は読むと不快な気持ちになるかもしれない。

 この小説はエッセイ、研究書をはじめとするこれまでの数々の著作に現れた著者の恋愛思想の具体的な現れであり、決して広く人々の共感を求めるものではない。しかし少なくとも私は大変共感できた。実際、小説の中の記述と自分の過去の経験とが重なり、読んでいる間中何度も胸が苦しくなった(例えば恥ずかしいラブレター、相手に恋人がいるのではないかという不安、相手の勘違いさせる言動、拒まれるとわかっていても迫ること、周囲の男性に対する嫉妬など)。こういうのは倫理を超越したものだから「ストーカーされる側の立場に立っていない」などの批判は的外れである。これからも著者には「誰でも努力しだいで恋愛できる」という恋愛至上主義の価値観に楔を打ち込みつづけて頂きたい。



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