「新しい世界文学全集を作ります。どの作品を入れますか?」というトピックで三人が
熱く語り合う。語り合うのが「文学大好き名無しさん」ではなく、丸谷才一、鹿島茂
三浦雅士という面々なのがこの本のちょっとだけ贅沢なところ。
基本はバカ話。「ここでサブカル入れときましょう」「艶本で一巻作りましょう」とか
「吉田健一で一冊」などやりたい放題。いいんです。どうせ実現不可能なんだから。
いまどき「世界文学全集」というような教養的読書なんてもちろん流行りません。けれど
この本の中で指摘されているように「村上春樹も小川洋子も世界文学全集を読んで育って
いる」のは間違いないように思えます。そしてその読書体験が「身の回りを書きつくして消え
ていく」若い世代の作家との最大の違いである可能性も、やはり無いとはいいきれないと
思うのです・・・・
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文学全集を立ちあげる
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もちろん、「編者」たちに本気で全集を立ち上げる気などない。外国語作品も既訳から選ぶ算段らしく、つまり収録作品は既に本邦に流通しているワケだから、読みたければ書店その他に走ればよい。ま、要はちょっと捻りの効いた読書案内。
ただそれなりに野心はあって、冒頭から丸谷が「現代の文学的キャノンを樹立しよう。そのラインナップによって、新しい世界文学の見方を提供しよう」(p8、p13他)と大上段に振りかぶり、鹿島・三浦も同調する。その虚とも実ともつかぬ放談を楽しむ本。
しかし嫌味と言えばこれほど嫌味な本もない。ゴシップも織り交ぜ古今東西の作家・作品について繰り広げられる品定めに傾聴に値する意見も少なくないものの、そうした侃々諤々の舞台裏を公開しようという本書の企画自体が、キャノンの聖性を損なっている。丸谷はそれを「遊び心」の一言で救ってしまいそうだが、私としては「パーティで政治演説をする野暮」(p277)を承知で、愚直に「アンタたち、キャノンなんて毛ほども信じてないくせに!」と食いついてみたい。
それにしても、『出生の秘密』を読んだ時も「アレ?」と思ったのだが、三浦の丸谷への摺り寄り振りには納得がいかない。かつて柄谷行人とぴったり寄り添っていた人間として、何か一言、挨拶があって良さそうなもんじゃネェのかい? 「江戸文学研究家」(p157)が聞いて呆れらァ。
ただそれなりに野心はあって、冒頭から丸谷が「現代の文学的キャノンを樹立しよう。そのラインナップによって、新しい世界文学の見方を提供しよう」(p8、p13他)と大上段に振りかぶり、鹿島・三浦も同調する。その虚とも実ともつかぬ放談を楽しむ本。
しかし嫌味と言えばこれほど嫌味な本もない。ゴシップも織り交ぜ古今東西の作家・作品について繰り広げられる品定めに傾聴に値する意見も少なくないものの、そうした侃々諤々の舞台裏を公開しようという本書の企画自体が、キャノンの聖性を損なっている。丸谷はそれを「遊び心」の一言で救ってしまいそうだが、私としては「パーティで政治演説をする野暮」(p277)を承知で、愚直に「アンタたち、キャノンなんて毛ほども信じてないくせに!」と食いついてみたい。
それにしても、『出生の秘密』を読んだ時も「アレ?」と思ったのだが、三浦の丸谷への摺り寄り振りには納得がいかない。かつて柄谷行人とぴったり寄り添っていた人間として、何か一言、挨拶があって良さそうなもんじゃネェのかい? 「江戸文学研究家」(p157)が聞いて呆れらァ。
台詞の上に名前が書かれていなくても誰が発言したかわかるほど個性的な面々による文学漫談。文学者としてビジョンを打ち出す丸谷才一に、どこか投げ遣りな鹿島茂。批評家としての主張を通そうとする三浦雅士。特に三浦雅士が、「『月夜だけとは限らない』と言われますよ、きっと」などと脅したりすかしたりしながら二人を説得し、主張が通ると「ありがとうございます」などと礼をいうところなど面白い。結局、求道的大河小説のない世界文学全集をつくろうという方針通り『ジャン・クリストフ』も『チボー家』もない原案が出来上がる。フランス文学32巻、ロシア文学10巻、ドイツ文学13巻。中国文学に至っては5巻。
日本文学は、「いま読んで面白いこと」を最大の基準に、なんと『古事記』も親鸞も入った全集が出来上がっていく。しかも芥川が落選しそうになるが何とか救われる。でも『真珠夫人』の菊池寛と抱き合わせ。日本文学は当然時代が下れば下るほど噂話になり、極め付けが「ドーダ」。これは東海林さだお氏の「ドーダ学」を拝借して「ドーダ、俺はこんなにエライんだぞ」と自慢することを意味し、森鴎外や幸田露伴は「ドーダ」の典型と決め付けられる。さらに、その「ドーダ」を「俺が俺が」というあからさまな自己肯定の「陽ドーダ」と装われた謙遜である「陰ドーダ」に分類し、鴎外や子規、それに小林秀雄は陽ドーダ、露伴は陰ドーダと言いたい放題。野間宏などはスピーチが長い、節度がないとまで悪口を言われる。日本文学編は芥川を救った司会の湯川豊がいい味を出している。
贔屓の作家が評価されると自分の鑑識眼が褒められたかのような気分になり、逆に分量が減らされると腹が立ち、心の中で反論を始めてしまう。前から気になっていたけれど読んでいない作家や作品名の解説を読んで、読んでみたいと意欲を掻き立てられた。全集の巻立てはともかく楽しく読める。
日本文学は、「いま読んで面白いこと」を最大の基準に、なんと『古事記』も親鸞も入った全集が出来上がっていく。しかも芥川が落選しそうになるが何とか救われる。でも『真珠夫人』の菊池寛と抱き合わせ。日本文学は当然時代が下れば下るほど噂話になり、極め付けが「ドーダ」。これは東海林さだお氏の「ドーダ学」を拝借して「ドーダ、俺はこんなにエライんだぞ」と自慢することを意味し、森鴎外や幸田露伴は「ドーダ」の典型と決め付けられる。さらに、その「ドーダ」を「俺が俺が」というあからさまな自己肯定の「陽ドーダ」と装われた謙遜である「陰ドーダ」に分類し、鴎外や子規、それに小林秀雄は陽ドーダ、露伴は陰ドーダと言いたい放題。野間宏などはスピーチが長い、節度がないとまで悪口を言われる。日本文学編は芥川を救った司会の湯川豊がいい味を出している。
贔屓の作家が評価されると自分の鑑識眼が褒められたかのような気分になり、逆に分量が減らされると腹が立ち、心の中で反論を始めてしまう。前から気になっていたけれど読んでいない作家や作品名の解説を読んで、読んでみたいと意欲を掻き立てられた。全集の巻立てはともかく楽しく読める。
丸谷才一大先生を中心として、世界文学133冊、日本文学古典88冊、近代84冊の全305冊の架空に及ぶ大全集の内容を決定していく鼎談(日本文学は実際には四人だけど)。勿論みんな勝手なことを言いながらやっていくわけで、その談義そのものがまず面白い。どうせ架空なのだし売れ行きを気にすることもないし、歯に衣を着せずというか、よく考えると悪口雑言集だ。そしてもうひとつ、自分が如何に読んでいないかということの再確認と、どのようにお三方に評価されているかとは関わりなく興味を惹かれる作品との出会いの糸口となりうるという意味で、意義深い本でもある。正直、自分の中での文学評価とは相容れないものがあまりにも多く、実現したとしても全部そろえることはなかろうが・・世の人々が文学から遠ざかりつつある現在、こういう「文学への勧誘」もあり、ということですね。ただ、話題づくりのためかちょっとタメニスル的な議論も多いなあと感じるので、とりあえず星四つにした。
鹿島の「いまの日本の小説を書きたいという連中はひどくて、無知であることを少しも恥ずかしいと思っていない」という発言を受けて、三浦はこう答える。「いまの日本では音楽家、小説家だけじゃなくて、政治家にしても、官僚にしても、教養というものが必要とされないんだね」。
うん、今の時代、誰も教養を求めていないし、求められることもない。教養ってのは一種のたしなみというか余裕というか人間の幅というか大いなる無駄というか...つまり、実利的なもんじゃないし目的指向なもんじゃないし、即、金には結びつかない。超資本主義で世知辛い今の時代、教養とかインテリの価値は風前の灯である。一方で、トリビアルな知識や専門家という名のオタク、空気を読むのだけはうまいコメンテーターなんてのは重宝がられる、そんな時代だ。
まあ、この三人の膨大な読書量、教養には平伏するしかないって思うのは古い人間で、今の人には単なる読書オタクにしか映らないだろう。だけど、体系としての教養を疎んじて、パーツとしての情報を重宝がるなんて、まさに木を見て森を見ないってことだ。一般教養でなしにトリビアルな知識、ハイカルチャー無しにサブカル・オンリーって時代はやっぱ、薄っぺらくって危うくって信用ならない。行き過ぎたポストモダンの悪弊だよな。
やっぱ、この本読んで、“恥ずかしい”って僕は思いたい。それにしても、この鼎談は、三浦・先導役、鹿島・つっこみ、丸谷・ご意見番って役割分担も明確で面白い(日本篇は、影の編集者、湯川豊氏の仕切りが絶妙)。この三人が、“いま基準”で古典を総括する(芥川も堀辰雄も三島も、あまりいらない...)ってのは意味あると思うけど、これほんとに出したら、売れなくて文春倒産するよね。
最後に、読んだ人への問い。この三人は“陽ドーダ”なのか“陰ドーダ”なのか。“ドーダ”なのは確かだし、“ドーダ”も必要よ!って本ではある。
うん、今の時代、誰も教養を求めていないし、求められることもない。教養ってのは一種のたしなみというか余裕というか人間の幅というか大いなる無駄というか...つまり、実利的なもんじゃないし目的指向なもんじゃないし、即、金には結びつかない。超資本主義で世知辛い今の時代、教養とかインテリの価値は風前の灯である。一方で、トリビアルな知識や専門家という名のオタク、空気を読むのだけはうまいコメンテーターなんてのは重宝がられる、そんな時代だ。
まあ、この三人の膨大な読書量、教養には平伏するしかないって思うのは古い人間で、今の人には単なる読書オタクにしか映らないだろう。だけど、体系としての教養を疎んじて、パーツとしての情報を重宝がるなんて、まさに木を見て森を見ないってことだ。一般教養でなしにトリビアルな知識、ハイカルチャー無しにサブカル・オンリーって時代はやっぱ、薄っぺらくって危うくって信用ならない。行き過ぎたポストモダンの悪弊だよな。
やっぱ、この本読んで、“恥ずかしい”って僕は思いたい。それにしても、この鼎談は、三浦・先導役、鹿島・つっこみ、丸谷・ご意見番って役割分担も明確で面白い(日本篇は、影の編集者、湯川豊氏の仕切りが絶妙)。この三人が、“いま基準”で古典を総括する(芥川も堀辰雄も三島も、あまりいらない...)ってのは意味あると思うけど、これほんとに出したら、売れなくて文春倒産するよね。
最後に、読んだ人への問い。この三人は“陽ドーダ”なのか“陰ドーダ”なのか。“ドーダ”なのは確かだし、“ドーダ”も必要よ!って本ではある。
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