自然、主人公の父親に自分の父親が重なり、主人公と同じ境遇に自分が置かれたときを考えずにいられなかった。
認知症になったと父親と、主人公らとの「会話の微妙なかみあわなさ」の描写が丹念で見事だと思った。
言葉の次元ではかみ合うことが減っていく親子の会話。心は言葉に振り回されやすく、親子の関係そのものが壊れていくと感じる人もいるだろう。
そこを、あえて症状と切って捨てるのではなく、「言葉の意味を超えて通じ合う何物か」を模索して、提示してみせる。
いささか教科書的に感じるほど、よく調べてあるものだと思った。認知症の進行の様子や対応の仕方なども含めて、思慮深く再構築されている。
佳代子の存在といい、小説だから起きる幸運もいっぱいなのだけれども、いつかくるときを思い描く手がかりに勧めたい。
龍の棲む家
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作中で使われている「痴呆症」という言葉は現在「認知症」となりました。
主な登場人物である認知症の父、寄り添う息子、専門知識を持つ女性、それぞれの人物像が思い描きやすくてすんなりと読めました。
認知症の方と関わる上での、人間味のある教科書的な感じを受けました。美しくまとめられていると思います。
あまり認知症のことをご存知ない方にお薦めです。普段から関わりのある方には少し綺麗事のように感じられるかもしれません。
主な登場人物である認知症の父、寄り添う息子、専門知識を持つ女性、それぞれの人物像が思い描きやすくてすんなりと読めました。
認知症の方と関わる上での、人間味のある教科書的な感じを受けました。美しくまとめられていると思います。
あまり認知症のことをご存知ない方にお薦めです。普段から関わりのある方には少し綺麗事のように感じられるかもしれません。
自分の親が呆けてしまったらどうなるだろうか?親は、家族は、自分は?という思いからこの作品を読みました。この作品には佳代子という介護のプロが登場します。この佳代子はミステリアスでありながら体温を感じさせる存在として描かれています。これがまず非常に良かった。ただし、こんな存在が現実の、つまり私の傍に現れるかどうかという点で「やはり小説の世界だな」と感じざるを得ません。呆けた主人公の父が何を求めているのか?作中で「龍は失った玉を探し求めている、そしてその玉とは団欒である」という展開になって来ます。読みながら私は、呆けてしまった人は正に周囲の人間からは中々理解されにくい、一種の怖ろしさと尊敬、即ち畏怖の対象でありこれはそのまま幼いころから話に聴き、絵となった姿を見て非常になじみ深い龍そのものではないかと思いました。終始静かな語り口調で、呆けた人に対してどう接するべきかについてひとつの方向性を示した所も中々に腑に落ちます。
読みやすい文体なのに、その底流からは人を優しく暖かい視線で見てい
ることがひしひしと伝わってくきます。
【淡麗】と形容したくなるような作品です。
アルツハイマー症の老人への向き合いと介護をテーマにした小説ですが、
重過ぎずに、なぜかほっとするような幸せな読後感を覚えました。
つかの間の団欒、ぬくもり、安心感、揺れ、暴れ、化身・・
そんなキーワードが散りばめられた作品です。
ることがひしひしと伝わってくきます。
【淡麗】と形容したくなるような作品です。
アルツハイマー症の老人への向き合いと介護をテーマにした小説ですが、
重過ぎずに、なぜかほっとするような幸せな読後感を覚えました。
つかの間の団欒、ぬくもり、安心感、揺れ、暴れ、化身・・
そんなキーワードが散りばめられた作品です。
■主人公は奥山幹夫。脚本家志望だったが挫折、妻とも離婚し、2年前郷里の隣町に喫茶店を開いた。ある日、兄から電話があり「父親が痴呆症になりつつあり、徘徊することもある」と聞かされ驚く。母親は5年前に他界。以後、兄一家は父親のそばで暮らすために、実家の隣に家を建てて住んでいる。が、昨年兄の妻も病で亡くなっていた■幹夫は喫茶店をやめ、父との同居を決意した。兄の話を聞いて11日目には父親との生活をスタートさせたのだった。これまで兄に負担をかけさせたから次は自分の番だという意識があったのだ■一緒に暮らし父の病と向き合う日々が始まる。「ミサコがいない」と心配する父。その名前に幹夫は心当たりがないが、調べる内に幼くして死んだ父の妹の名前であることを知る。父親にとって時間と空間が朧(おぼろ)になってきているのである。父は、散歩で《龍が淵公園》に行くことを好んだ。そこには、市役所の課長時代の父の思い出が宿っていた。その公園で、偶然介護福祉士の佳代子と出会い、ヘルパーとして出入りしてもらうことになった。佳代子から痴呆症患者との交流の仕方、距離の置き方などを教わる内、いつしか二人は惹かれあうのだった……■「さからわず、怒らせず、ひたすら寄りそう」という言葉が、強く印象に残った。



