若い頃読んだ時にはフィッツジェラルドにしては少し気味の悪い作品と思った記憶がある。
今になって読んでみて、このカットグラスに象徴された物が解るようになった自分がちょっとかなしいかな。。。
ほぼデビュー時に書かれたこの作品。フィッツジェラルドの初期の作品は女性にとっては意地悪な感じが少しある。
漆黒の瞳のある青年に”僕は君に贈り物をあげるよ。それは君と同じように硬くて、美しくて、空っぽで中が透けて見えるものだよ。”
という言葉と共にもらったカットグラス、大して重要性も感じず持ち続ける。
年月は経ち、この硬くて冷たくて美しい物に復讐されているように感じてしまう主人公。
この短編終わり近くのガラスの幻想的描写はなんだか心に刺さります。
光は影に、影は光に屈折しゆがめられる光ときらめき。そして
”私は運命だ・・・物事の結末であり君のささやかな夢の成れの果てだ。私は飛び去る時間であり、
消え行く美しさであり、満たさざれる欲望だ・・・君の手の及ばぬものであり、人生という料理の薬味なのだ。”
もう呪いとしか思えない主人公はこのガラスと共に破滅する。しかしこの粉々に砕けた破片を
”月光に照らされた街路中に・・・光煌きを放つ・・・”と描写するところはとてもフィッツジェラルドらしく思う。
バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (中公文庫)
スコット フィッツジェラルド/F.Scott Fitzgerald/村上 春樹
価格: ¥680 (税込) 文庫 出版社: 中央公論新社 発売日: 1999/09 ISBN: 4122034949 おすすめ度: ![]() Amazon ランキング: 33654位 発送可能時期: 通常24時間以内に発送 ![]() |
大恐慌前、「時代の寵児」としてもてはやされたフィッツジェラルド。大恐慌後には没落する。それを彼は予想していたのだろうか?その前後には文章において、差はあまりない(完成度を考えればかなり違いはあるが・・・)。
しかし、「時代の寵児」として生きていたときから、その没落を予想していたとしか考えられない文章ばかりである。
しかし、「時代の寵児」として生きていたときから、その没落を予想していたとしか考えられない文章ばかりである。
普通なら絶世の美女と結婚し、経済的にも裕福で言うことがない状態ならば、そんな破滅へ向かうような文章は書かないのではないだろうか?もっと形而下的に訴えかけるものを考えそうなものである。しかし、村上春樹さんも言っているように、そこには深い内省がないのだ。そこにフィッツジェラルドの凄さがあり、弱点がある。
僕には彼の書く人物の感情がものすごく分かる。なぜかは分からないが、ダイレクトに訴えられるものがある。
彼の文章はすぐにはその凄さが分からないかもしれない。しかし、何回も読んだり、少し期間をあけて読むと、変わってくる。
「およそ人生はこれ、崩壊の過程である」というのがよく分かる。
「バビロンに帰る」が目的でこの本を購入しました。
読んでみて、初めは主人公ではなくて、妹の方に感情移入しました。
後半の方になってくると主人公がだんだん哀れになってきます。
取り返しのないことをしたと悔やんでも、失ったものは戻ってこないというツラさが、
登場人物からすごく伝わってきます。
この作品は、エリザベス・テーラー主演で映画化もされています。
私は本の方が好きですが。
~ 原書とかで読むのが面倒なので早く春樹さんに「夜はやさし」と「グレート・ギャッツビー」を訳してほしいと思っているのですが、それはともかくとしてこの五編の短編もそれぞれ読み応えがあり、訳も申し分ないものです。
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スコットが書く小説の主人公たちはどれもほぼ例外なくセンチメンタルな人間として描かれます。そしてその対象は主に過ぎ去ったもの、失われたものに注がれる。それを手にしていた間はあまり惜しいと思っていなかったものに。そしておそらくはそれ故に、その美しさ、儚さに心を奪われてしまうのでしょう。目の前にある現実を生きていくために、どんな夢見が~~ちな少年少女もいつかはリアリスティックになっていきます。例えば「バビロンに帰る」の主人公はそんな過程をすっ飛ばして大人になってしまったわけですが、遅まきながら自分の失った物のかけらの一部でも取り戻すために、自分の行動規範を掲げることで(アルコールを断つという)、大人になっていこうという姿は胸を打ちます。もちろんそれは不成功に終わり~~ます。過去の亡霊たちがそれを赦さないのです。しかしながら、そこにこそこの作品の根本的な悲しみと深み、そしてリアルな静けさ(いつかはみんな敗北者になるという無言の定め)が流れており、傑作を傑作足らしめているのです。そして僕たちが置き去りにしてきた何かを、スコットと彼の書く人物たちは永遠に持ち続けていることが何より重要なのでしょう~
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スコットが書く小説の主人公たちはどれもほぼ例外なくセンチメンタルな人間として描かれます。そしてその対象は主に過ぎ去ったもの、失われたものに注がれる。それを手にしていた間はあまり惜しいと思っていなかったものに。そしておそらくはそれ故に、その美しさ、儚さに心を奪われてしまうのでしょう。目の前にある現実を生きていくために、どんな夢見が~~ちな少年少女もいつかはリアリスティックになっていきます。例えば「バビロンに帰る」の主人公はそんな過程をすっ飛ばして大人になってしまったわけですが、遅まきながら自分の失った物のかけらの一部でも取り戻すために、自分の行動規範を掲げることで(アルコールを断つという)、大人になっていこうという姿は胸を打ちます。もちろんそれは不成功に終わり~~ます。過去の亡霊たちがそれを赦さないのです。しかしながら、そこにこそこの作品の根本的な悲しみと深み、そしてリアルな静けさ(いつかはみんな敗北者になるという無言の定め)が流れており、傑作を傑作足らしめているのです。そして僕たちが置き去りにしてきた何かを、スコットと彼の書く人物たちは永遠に持ち続けていることが何より重要なのでしょう~
表題作の「バビロンに帰る」がやはり最も印象的でした。「雨の朝パリに死す」とか「バビロン再訪」とか「再びバビロンにて」等々、さまざまなタイトルで翻訳されてきた短編小説ですが、本書の村上春樹訳が一番気に入っています。「やっぱりバビロンはバビロンだった」という取り返しのつかない重いエンディングへさらりと(淡々と)突入して、あっさり話が終わってしまう後味の悪さがとてもよく日本語で醸しだされていると思う。



