幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)
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収録第一作目「幸福な王子」は記憶通りであったものの、以降「ナイチンゲールとばらの花」「わがままな大男」「忠実な友達」...と読み進むうちそのイメージがどんどんと傾いてゆく。
読み終わってみれば結局、狡猾で自己中心的でわがままな人々が正直者を餌食にし、その屍を踏みつけ乗り越えて能天気な暮らしを続行してゆく話のオンパレード。考えてみれば「幸福の王子」とてそのパターンの一亜種なのであった。
なんとシニカルな童話集だろう!著者オスカー・ワイルドとは一体どんな人物だったのか、関心が湧いてくる一冊であった。
この中で、子供にも「納得のいく」終わり方をしている作品は、二本あるかないかで、他は皆残酷な結末を迎える。それらの残酷さは、人間の醜さ・傲慢さなど、どこにでもあり、どこにでもあるからこそ童話の中では見たくないものによって齎されている。いわばワイルド流のカリカチュアのようなものだろう。
救いの無い世界を、そのまま写し取った残酷童話と読む事もできる。
しかし私は、現実の社会を見詰め、その汚さと向き合ったワイルドが、
「聖人君子のようには生きられない。それでもその醜さ・傲慢さを含めて、人は美しく・愛しい」
…そんな風に言っているように感じる。
彼独特の、過剰なまでの「美」の描写が少々くどいと感じる人もいると思うので、星は四つ。それでも物語の筋を追うのに邪魔になるほどではないし、幻想的な童話の世界へといざなう役割を十分に果たしている。
忙しない世の中、耽美な世界を楽しみたい時には、おすすめ。
滅亡したローマ帝国の物語のように、失った物語がロマンチックを意味するならば、ワイルドの描く悲劇こそがそうであるように私には思える。
『ナイチンゲールとばらの花』、『王女の誕生日』の2話はそれぞれ、小さな小さな叶わぬ恋の物語である。
童話というにはあまりに辛辣で、恋愛小説というには心踊るような空想からあまりにかけ離れてはいるが...。
しかし、命を賭したはずの恋によって悲観しか得られなかったり、恋に踊って手痛い失敗をした経験を、皆お持ちではなかろうか?
ナイチンゲールが、学生の少女への想いのために血で染めたバラは、花を好むと謳いながら実際は花よりも宝石を好む少女のために打ち捨てられる。
一方こびとの心臓は、恋に一人踊っている彼自身の醜さに気付いたとき、その醜さに耐えかねて動きを止める。
私たちも、度々花より宝石を好み、成長の過程や熱い想いよりは目の前の結果や外面的なものを選択する。
そして時には自身のナルシシズムの醜さに愕然とする。
そういった現実を肯定するでもなく、かといってはっきりと否定もせずに、ワイルドはチクリと私たちの胸を刺す。
どこか一段高いところから乾いた言葉を投げかけてくるようでいて、実際にはウェットなストーリー。
この魅力は、どことない疎外感を感じる現代にこそ実感されるものではないだろうか。
今様の希薄な関係性に耐えられない人、もしくは自分の隣にいてくれる人に対する満足を知らない人々にぜひ一読を薦めたい。
子どものころ読んでいた絵本を探し出し比べてみると、なるほど、子ども向けのは王子とツバメの愛の語り合い・キスシーンがカットされている。少しネットで調べてみると、どうやら子ども向けのものには意図的に改変(カット)されてる箇所があるらしかった。
子どもの時に読んで思ったことは、「王子って勝手なやつ。ツバメは可哀想。」だった。恐らくは著者の意図する「他人への慈愛、思いやりは素晴らしい」ということはあまり私には伝わらなかった気がする。子ども向けではその描写はカットされてしまっているが、この童話は王子とツバメの愛があってこそ成立するものなのだと思う。
もし、子ども向けの改変されたものしか読んだことがない人がいたら、ぜひこの本を読んでもらいたい。ひょっとしたら、昔とはまったく違う善い方向への感想が持てるかもかしれない。私のように。



