洪水はわが魂に及び (上) (新潮文庫)
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知恵遅れの幼児ジンとともに核避難所跡に籠った狂人勇魚と、自由航海団を名乗り猛進する若者たちの交流の物語。自らの力で暴れ飛び出したい自由航海団の若者たちであるが、その怒りや危機意識は妄想の範囲内であり、エポックメーキングを予測したり自ら創出しようかと考えてみるにとどまっている。樹木の魂、鯨の魂の想念において航海団のリーダー喬木と通じ合った勇魚は、ジンとともに籠りきりの生活を脱し航海団と行動してゆく。明らかな閉塞感は漂いつつも打破すべき目標が明確ではなく、航海団は迷走しながらも前へ前へ進もうとする。知恵遅れジンの「…ですよ」という静かな口調、粘り付くような性描写に象徴される航海団の伊奈子の伸びやかな性格、それらが物悲しい物語を美しく薄明るくしている。内部闘争を経ながら、航海団が外部(社会)と接触するべく下巻へと続く。
大江の数ある作品群の中で、あえて一つ最も優れた作品(もちろん現時点の僕にとって)を選べといわれれば、僕はこの作品を選ぶだろう。一つの理由には、僕の若さゆえのセンチメンタルな側面ということがやはりあるだろうが、(この作品は彼の作品の中でもセンチメンタルな印象が強い作品だと思う)センチメタルなだけだということに終始しない大江の力を感じる作品でもあると思う。読んでもらえればわかることなのであえて詳しくは書かないけれど、まず「自由航海団」なるものに託された反政府、反体制への想い。その想いは結局小説の中でも破れてしまうのだけれども、そういったものに対する熱い想いがひしひしと切実に(それゆえにセンチメンタルに!)伝わってくる。こういった思想は結局は大きな歴史観に立てば敗れゆくものなのかもしれない。しかしこういった思想なしには結局人間は飼いならされた羊、すなわち最も非人間的なものにしかなりえないのではないだろうか?そのような生になんの意味があるだろうか?
もう一つこの作品で僕を強くひきつけたのは、「鯨」、「木」、そして主人公の息子に対する主人公の限りない優しさだ。僕は「優しさ」という言葉に対しては、すぐに偽善の種を見出すたぐいの人間なのだが、彼の小説ほど、真に弱者、社会の隅のほうにいる者への優しさ(それは偽善でもなんでもなくて!)を感じられる物に出会ったことはない。彼はそれを一生涯かけて、彼自身の内面を公衆にさらすことで具現化していったのだからそこに偽善の入り込む余地などない。
長々と書いてきたけれど、本当に一度読んでみてください。この作品がすごく冗長な文体で書かれていることは僕も否定しません。しかし読み終わったあとの、あのカタルシスのごとき感覚をあなたも一度味わってください。
もう一つこの作品で僕を強くひきつけたのは、「鯨」、「木」、そして主人公の息子に対する主人公の限りない優しさだ。僕は「優しさ」という言葉に対しては、すぐに偽善の種を見出すたぐいの人間なのだが、彼の小説ほど、真に弱者、社会の隅のほうにいる者への優しさ(それは偽善でもなんでもなくて!)を感じられる物に出会ったことはない。彼はそれを一生涯かけて、彼自身の内面を公衆にさらすことで具現化していったのだからそこに偽善の入り込む余地などない。
長々と書いてきたけれど、本当に一度読んでみてください。この作品がすごく冗長な文体で書かれていることは僕も否定しません。しかし読み終わったあとの、あのカタルシスのごとき感覚をあなたも一度味わってください。
知恵遅れの幼児と共に、武蔵野台地の核避難所跡に立てこもり、「樹木の魂」「鯨の魂」と交換する大木勇魚。銃火器を所持するアナキーな「自由航海団」の若者たち。それら両者の共同を描く。この小説をおおっているのは過剰な危機意識であり、被害感覚である。平均的なものありきたりなものはいっさい登場しないが、どこか引き込まれる寓話である。大江にある独特の難解さ、冗長さは多少みられるが、大江文学にしては展開に切れがよく、かなり異色の長編小説。とはいえ上巻はとりとめのない小話の連続で構成されているので、途中であきることはあきる。


