因習を超えて自由に恋愛と文学の道を進もうという「明治の女性」に恋をした、パッとしない小説家の煩悶を描いた作品。作家自身の個人的体験を情けなくも赤裸々に描いたとされるこの作品は、「私小説」「自然主義」といった視点から当時は文学的事件になった作品である。
東京から田舎に送り返されたヒロインが、それまでの言文一致体の手紙から候文の手紙を送ってくるラストなどは、当時の文体の問題にも目配せしてあるとも言えよう。
つまり、背景をきちんとおさらいすれば、この作品が日本文学史上、ある時代の代表作だったことはよく分かるのだが、いかんせん恋愛物語として今の時代に読むと、ストーリーが平凡な感は否めない。それは明治時代に男女関係や女性に社会が求めた道徳と、その手のモラルが壊れきった平成の世の恋愛間との違いといえば、当たり前すぎる陳腐な解釈になってしまうのだが、でもそうなのだから仕方が無い。
文学史のお勉強として読めば読んで損はしない作品なので4点くらいは付くだろうが、今の時代に単に小説として読めば1〜2点の読み応えである。恋愛小説として一般人が今でも面白く読めるかどうか、というこの点は、中古取引価格の低さにも現れているのではないか。
蒲団・重右衛門の最後 (新潮文庫)
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この私の生まれるはるか前の小説ですが、現代の男にもそのまま共感できると思います。まさに作者の本音をそのまま格好付けることなく書いてしまったといった感じです。
しかも読みやすいです。
しかも読みやすいです。
「蒲団」が発表されたころ『三四郎』も出ている。三四郎はのぼりの東海道線で一緒になった
謎の女性と宿を共にし、一つのふとんを二つに分けて寝る描写がありますが、これは明らかに
三四郎の晩生(おくて)ぶりをあざ笑うためのものであって、ということは、当時の日本人は
性愛について、今から思うほど閉ざされたものではなかったのである。その状況が、「蒲団」を読むと実によくわかる。それなりに主人公は煩悶しているが、そのさまは滑稽とは思えない。むしろ、主人公の口ぶりのように当然であるかのようだ。恋と愛とは異なり、恋愛と結婚は一つの延長線で結ばれているわけではない。当たり前だが、この21世紀になっても、そこのところがよく理解されていないように思います。ということで、明治の男だって悩んでいたのだ。貴兄の悩みは無理からぬことだ。
謎の女性と宿を共にし、一つのふとんを二つに分けて寝る描写がありますが、これは明らかに
三四郎の晩生(おくて)ぶりをあざ笑うためのものであって、ということは、当時の日本人は
性愛について、今から思うほど閉ざされたものではなかったのである。その状況が、「蒲団」を読むと実によくわかる。それなりに主人公は煩悶しているが、そのさまは滑稽とは思えない。むしろ、主人公の口ぶりのように当然であるかのようだ。恋と愛とは異なり、恋愛と結婚は一つの延長線で結ばれているわけではない。当たり前だが、この21世紀になっても、そこのところがよく理解されていないように思います。ということで、明治の男だって悩んでいたのだ。貴兄の悩みは無理からぬことだ。
中年の妻帯者である小説家が、若い女性を書生として世話しているうちに彼女に恋するようになるが、彼女には同年代の恋人がいて悶々とするという話です。それだけの話なのですが、妻帯者の浮気願望を「性欲」という言葉をはっきりと使って描く姿勢は、やはり当時(発表は明治40年)としては画期的だったのでしょう。明治後半にここまでの描写が許されるということに驚きました。
現代人の感覚からすると難しい漢字が多く使われていて読みにくいはずの小説なのですが、読んだ印象はあくまで叙情的なものであるところもすごいと思いました。主人公の中年小説家の心情はよくわかるとか公言できないところがつらいのですけどね。
現代人の感覚からすると難しい漢字が多く使われていて読みにくいはずの小説なのですが、読んだ印象はあくまで叙情的なものであるところもすごいと思いました。主人公の中年小説家の心情はよくわかるとか公言できないところがつらいのですけどね。
本作は、自然主義の大家の代表作として、また、後に日本文学の主要なジャンルの一つとみなされるに至る私小説の最初の作品として、多くの文学史の教科書・研究書等で大きな扱いを受けています。本作の発表直後、ほとんど本作の模倣と言ってもいいような作品が多く発表されています。それだけ本作の影響力がすごかったわけで、文学史の教科書で大きく扱われているのもうなづけるわけです。とはいえ、実は本作の芸術的価値は同時代の段階で既にほとんど認められていません。では、何が評価されたのかというと、作品の内容そのものというよりは執筆態度であったらしいのです。当時、自然主義作家たちは「露骨なる描写」を目標に掲げており、女弟子に対する自己の恋愛感情をあられもなく暴露するという大胆でかつ勇気ある執筆態度をもって書かれた本作は、その目標の達成として大きな評価を得たというわけです。田山花袋の「勇気」なくして、自然主義の理論上の達成も、私小説というジャンルの誕生もなかったわけであり、本作の文学史上の価値はとてつもなく大きいのです。ですが、私の個人的な感覚から言わせていただけば、本作の文学的価値はそれほど大きいものとも思えず(好き嫌いの問題なのかもしれませんが)、名前だけ知っておけばよいという程度の作品ではないかと思います。



