本多が最後にたどり着いたのは、がらんどうの世界だった。最後の最後まで、三島はミス・リーディングを続けたことになる。つまり、輪廻なんて、この世にゃ、ないのさ、と言ってしまった。本多は透を、亜種のもどきと捉えた。透が登場した時点で、この物語は破局へと向かっていく。ところで、太宰治には、彼が繰り返し語った、難破した水夫の話がある。「雪の夜の話」では、難破した若い水夫の目の中に、燈台守一家の団欒の光景が映されていた、という話が出て来る。三島はあるいは、この話を読んでいたのかもしれない。三島は、この話から、〈燈台〉、〈若い〉、〈目〉という単語を取り出し、透を〈燈台〉に類した場所で働く、何でも良く見えてしまう〈目〉を持っている(と思い込んでいる)〈若い〉男として登場させたのではないか。なんていうのは、私のカンである。
堀部功夫氏は、太宰治が探偵小説を好んで読んでいたことを、「人間失格」の一節よりの引用などから紹介している。あるいは、と思った。「人間失格」もまた、最後の最後まで太宰がミス・リードし続けた作品なのではあるまいか。葉蔵は、いまの自分には幸福も不幸もない、ただ、一切は過ぎていく、そういう認識のうちに生きている、そう告白し、物語から姿を消してしまう。葉蔵なんて人間は、はじめから存在しなかったのではないか。手記を紹介している時代が、敗戦色の濃い昭和二十年ごろ、と推定されるのは、おそらく偶然ではない。戦後、太宰は日本は滅びた、と作品に書いた。葉蔵は、一人の人物などではなく、日本そのものだったのではないか。紹介者による葉蔵の写真、その三葉目の描写は、それを証拠立ててはいないか。眉も平凡、何も平凡、かにも平凡、そんな顔は個人の顔としては不自然だからである。さらに、手記の紹介者が、バーのマダムが受け取った手記に手を加え、作品内に配した可能性もあるのではないか。謎の多い作品である。
天人五衰 (新潮文庫―豊饒の海)
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私はかつて、写真を通し、三島由紀夫の誠に美しい死体を見たことがある。
首を失い床に倒れた体の、何とも言えない膝の折れぐあいや、
カーペットに黒く染められた壮絶な血の広がりすら、いかにも絶妙で、この上なく美しかった。
胴体が首もとの切り口をこちらにむけ、その左手前に、三島と森田学生の首が並べて置かれている写真もあれば、
眠るが如く清廉な面立ちの三島の首のアップ写真も見た。
それらは超然としていて、すさまじい光景を移していながらも、
実に静かな印象を与える写真だったことを覚えている。
グロテスクなものの大の苦手な私が、三島の死体だけは、
大きな感動をもって見ることが出来た。
心底美しいと思った。
彼の死は、芸術的な意味でも、彼の持っていた武人的な意味でも、
間違いなく「成功」で、周りがどうのこうの論じることのできない境地にあり、
あの美しすぎる死体の前には、彼自身の成した如何なる作品でさえも、
実に小っぽけなものだと思った。
しかしながら、結果として、彼ほどその死をもって芸術を完成させた者は、近代・現代を通じていないし、
彼の数多き名作の中でも、「春の雪」〜「天人五衰」の四部作が、
その作品スケール、繊細さ、強さ、哲学性、日本精神、…あらゆる面で、群を抜いた最高傑作であることは論を待たず、
実に、日本史上最高の文芸作品と評価されえる作品だと思う。
殊にこの「天人五衰」は圧巻であり、彼の終曲にふさわしい、
彼の持っていた一切の詩の横溢である。
三島の死を思うと、「天人五衰」の終わりを思い出さずにはいられず、
「天人五衰」を読み返せば、三島の死を思わずにはいられない、
彼の死とは切っても切れない唯一の小説作品ではないだろうか。
彼の死によって、ゆるぎなく完成されたこの作品を、
これからも世界中の人々に読まれ続けることを願わずにはいられない。
首を失い床に倒れた体の、何とも言えない膝の折れぐあいや、
カーペットに黒く染められた壮絶な血の広がりすら、いかにも絶妙で、この上なく美しかった。
胴体が首もとの切り口をこちらにむけ、その左手前に、三島と森田学生の首が並べて置かれている写真もあれば、
眠るが如く清廉な面立ちの三島の首のアップ写真も見た。
それらは超然としていて、すさまじい光景を移していながらも、
実に静かな印象を与える写真だったことを覚えている。
グロテスクなものの大の苦手な私が、三島の死体だけは、
大きな感動をもって見ることが出来た。
心底美しいと思った。
彼の死は、芸術的な意味でも、彼の持っていた武人的な意味でも、
間違いなく「成功」で、周りがどうのこうの論じることのできない境地にあり、
あの美しすぎる死体の前には、彼自身の成した如何なる作品でさえも、
実に小っぽけなものだと思った。
しかしながら、結果として、彼ほどその死をもって芸術を完成させた者は、近代・現代を通じていないし、
彼の数多き名作の中でも、「春の雪」〜「天人五衰」の四部作が、
その作品スケール、繊細さ、強さ、哲学性、日本精神、…あらゆる面で、群を抜いた最高傑作であることは論を待たず、
実に、日本史上最高の文芸作品と評価されえる作品だと思う。
殊にこの「天人五衰」は圧巻であり、彼の終曲にふさわしい、
彼の持っていた一切の詩の横溢である。
三島の死を思うと、「天人五衰」の終わりを思い出さずにはいられず、
「天人五衰」を読み返せば、三島の死を思わずにはいられない、
彼の死とは切っても切れない唯一の小説作品ではないだろうか。
彼の死によって、ゆるぎなく完成されたこの作品を、
これからも世界中の人々に読まれ続けることを願わずにはいられない。
四部作のいよいよ結
ある意味、いやらしく覗き見の人生だった本田に、
聡子のどんでんがえし。
60歳、還暦・・・戻るんですよね。
なんか良質のミステリーのようです。
三島さん、結局、この四部作で何が伝えたかったのだろう?
諸行無常?
所詮、人間の生は、泡沫の夢。。。
ある意味、いやらしく覗き見の人生だった本田に、
聡子のどんでんがえし。
60歳、還暦・・・戻るんですよね。
なんか良質のミステリーのようです。
三島さん、結局、この四部作で何が伝えたかったのだろう?
諸行無常?
所詮、人間の生は、泡沫の夢。。。
豊饒の海の最終巻ですが、全四巻の中で最も読みやすく、かつ、淡々と進んでいく一冊です。しかし、登場人物の心情描写が一番上手くできていて、特に本多と透の内の激しいものが実に巧みに描かれています。春の雪、奔馬、暁の寺にあったような大きな事件や困難にぶつかるというのは最後までなく、まさに本多と透の葛藤!という感じです。それが本当に面白い!
透、本多それぞれを中心としての文章が上手く交互に繰り広げられるのです。三島先生の才能に脱帽してしまいます・・・。
著者の人物設定はすばらしいです。特に透、絹江を創造した著者の千里眼に感動しました。透の手記に見られる繊細な変化などはこの著者にしか書けなかったと思います。
私はこの結末が好きです。はっきりはしないのに後味がいいです。
この巻をもって、著者が見つめた『滅びの美』が完成します。
本当におすすめです。
透、本多それぞれを中心としての文章が上手く交互に繰り広げられるのです。三島先生の才能に脱帽してしまいます・・・。
著者の人物設定はすばらしいです。特に透、絹江を創造した著者の千里眼に感動しました。透の手記に見られる繊細な変化などはこの著者にしか書けなかったと思います。
私はこの結末が好きです。はっきりはしないのに後味がいいです。
この巻をもって、著者が見つめた『滅びの美』が完成します。
本当におすすめです。
戦慄の書。日本語を用いて記された物語としては『源氏物語』にも比肩する、圧倒的に美しく、完成された作品。
『豊饒の海』四部作の最終作で、三島が著した最後の作品としても知られる。
『春の雪』の松枝清顕、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』の月光姫として、六十年の長きにわたり「転生」を繰り返してきた「天人」安永(本多)透に、天人としての死が宣告される。そして、松枝の友人として、転生を目撃してきた「見者」本多繁邦は、自らが見てきた一切のもの、自らの生そのものが迷妄であったことを悟る。
この書にあって、圧倒的な存在感を示すのは本多繁邦、久松慶子、そして月修寺門跡(綾倉聡子)などの「闊歩する老人」である。
本多は、世界のありとある知を極めた大顕学でありながら、自らの夢「真実」に生きる。
それに対し久松は青い血の流れる大貴族で、その血の尊貴ゆえに、世界の一切を嘲笑する「暴悪大笑面」にも似た底知れぬ力を備えている。
綾倉は、至高の美しさ、有頂天にあるものとして本多の夢の結実でありながら、空の理法「四大元空」を、自ら示すことで本多の夢を粉微塵に砕く。
彼ら闊歩する老人の思想あるいは生き様の衝突はまさに荘厳たる「神々の争い」とも形容すべきで、彼らの前にあっては天人、安永透の存在感などは希薄そのものである。
私は、「天使殺し」久松慶子が安永透に言い放った言葉を決して忘れることはないだろう。時空を超えて、人間の心を震撼させる言葉である。
「あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生まれつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生まれて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んでくれる筈ですわ。」
『豊饒の海』四部作の最終作で、三島が著した最後の作品としても知られる。
『春の雪』の松枝清顕、『奔馬』の飯沼勲、『暁の寺』の月光姫として、六十年の長きにわたり「転生」を繰り返してきた「天人」安永(本多)透に、天人としての死が宣告される。そして、松枝の友人として、転生を目撃してきた「見者」本多繁邦は、自らが見てきた一切のもの、自らの生そのものが迷妄であったことを悟る。
この書にあって、圧倒的な存在感を示すのは本多繁邦、久松慶子、そして月修寺門跡(綾倉聡子)などの「闊歩する老人」である。
本多は、世界のありとある知を極めた大顕学でありながら、自らの夢「真実」に生きる。
それに対し久松は青い血の流れる大貴族で、その血の尊貴ゆえに、世界の一切を嘲笑する「暴悪大笑面」にも似た底知れぬ力を備えている。
綾倉は、至高の美しさ、有頂天にあるものとして本多の夢の結実でありながら、空の理法「四大元空」を、自ら示すことで本多の夢を粉微塵に砕く。
彼ら闊歩する老人の思想あるいは生き様の衝突はまさに荘厳たる「神々の争い」とも形容すべきで、彼らの前にあっては天人、安永透の存在感などは希薄そのものである。
私は、「天使殺し」久松慶子が安永透に言い放った言葉を決して忘れることはないだろう。時空を超えて、人間の心を震撼させる言葉である。
「あなたは歴史に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。人間に例外があると思つた。例外なんてありませんよ。
この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生まれつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪だつたり、さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生まれて来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んでくれる筈ですわ。」



