◆「清兵衛と瓢箪」
作者自身の父子対立が投影された作品といわれていますが、
そのような文学史的知識がなくても、一篇の小説として、
非常に完成度が高いので、充分たのしむことができます。
清兵衛の趣味に対する周囲の無理解や理不尽な抑圧が露骨に描き出される一方、
清兵衛自身は、それに対して必要以上に萎縮したり鬱屈することなく、後には絵という
新たな趣味に目覚め、マイペースを貫いています。
その姿が実にすがすがしいです。
もちろん、清兵衛の目利きが確かなものであったと
証明されるくだりも、若干ベタですがやっぱり痛快。
ただ、そんな清兵衛をなおも苦々しく思っている彼の父が示す
「最後の一行」の行為は、今後の波乱を予感させ、不穏な余韻を
残しており、本作にふさわしい絶妙の下げだといえましょう。
小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)
|
私は大学にて、文学(主に近代文学)について探究している最中なのであるが、この文庫本は、現在の流布本としては、非常に良質であり、是非、購入に値する、と言えるだろう。
特に、「小僧の神様」は、私が専門的に調べた文学作品なのだが、白樺派・自然主義の志賀直哉のエッセンスが濃縮されており、推敲を尽くした簡潔な文体で見事に表現されている。
内容としては、社会的弱者、また、福祉や生活保護に対して、アンチテーゼであるはずの安易に同情する人間的な弱さと、身勝手さ。そして、ある程度の「偽善」を、実は推奨しているのかもしれない、と私は捉えている。
加えて、最後の筆者の擱筆の部分は、私なりの解釈で、メタフィクションである、という結論に至った。
皆さんは、どう思われますか?
特に、「小僧の神様」は、私が専門的に調べた文学作品なのだが、白樺派・自然主義の志賀直哉のエッセンスが濃縮されており、推敲を尽くした簡潔な文体で見事に表現されている。
内容としては、社会的弱者、また、福祉や生活保護に対して、アンチテーゼであるはずの安易に同情する人間的な弱さと、身勝手さ。そして、ある程度の「偽善」を、実は推奨しているのかもしれない、と私は捉えている。
加えて、最後の筆者の擱筆の部分は、私なりの解釈で、メタフィクションである、という結論に至った。
皆さんは、どう思われますか?
自然の中を流れる小川のようにみずみずしくて、さわやかな読後感に包まれます。
大正6年から15年に書かれた短編18本は、志賀直哉が34歳から43歳、
ちょうど親との和解も成立した時期だそうで、作品の中にも落ち着きが感じられます。
男女、夫婦の間柄を描いた作品もどれもやわらかく、夫妻の仲もたぶんそのようだったのだろうと思いました。
また生命を見つめる視点も新鮮で、いつも目にしていながら何も感じない自分が恥ずかしいとさえ思います。
このような綺麗な日本語にはなかなか出会えないと思います。
忙しい毎日だからこそたまには読み返したいと思える作品でした。
大正6年から15年に書かれた短編18本は、志賀直哉が34歳から43歳、
ちょうど親との和解も成立した時期だそうで、作品の中にも落ち着きが感じられます。
男女、夫婦の間柄を描いた作品もどれもやわらかく、夫妻の仲もたぶんそのようだったのだろうと思いました。
また生命を見つめる視点も新鮮で、いつも目にしていながら何も感じない自分が恥ずかしいとさえ思います。
このような綺麗な日本語にはなかなか出会えないと思います。
忙しい毎日だからこそたまには読み返したいと思える作品でした。
何がそんなに凄いのか、説明出来ないほどに凄い。
個人的には「好人物の夫婦」がお薦め。
個人的には「好人物の夫婦」がお薦め。
「城の崎にて」「濠端の住まい」は、高等学校の頃、国語の時間に読まされた人も多いと思うが、時を経て、成人して大分経ってから読んでみると別な意味で感慨深い。よくこんな、話にもならない話が小説として、読ませるものだと、改めて信じがたい作品に感嘆。それも、自然な流れで、充実した時間を経過した後の満足な読後感が凄い。それと、志賀直哉は動物が好き、というか、気になる奴で、なんか、動物が困ったり右往左往したりする、そんな状態を子供のような興味の目線で、見事に描写する。決してサディスティックな病的なそれではないが、なんか、動物がやっつけられているような、そういう状態が気になるらしい。そこから、「生」のなにかが、説明ではなく、訴えかけてくる。かといって、詰まらない「意味付け」などは行わず、ただ、「経過」として、それが描かれ、その描写が、主人公=作者=読者の意識の推移を共にする。「小僧の神様」は、下手をすると小学生のときに読まされかねない作品だが、理解するのはまず無理だと思う。一体に、志賀の小品は優しそうにみえるが、或る年齢を経ないと、頭の問題ではなく、理解は出来ないと思う。「小僧の神様」は確かに「小説の神様」の名に恥じない。「雨蛙」は、志賀自身が、やや、失敗したところもある事を別な文章で述べており、阿川弘之の「志賀直哉」にもその辺りの事は書かれているが、数回読んだ感じから言うと、若干、終盤の実家に戻る場面は、聊か作り物めいてもいるが、気になるというほどでもない。私は個人的には、「邦子」(本書未収)とともに、志賀直哉らしくない作品で、やや「暗夜行路」の終盤の片鱗に通じる作品として、好ましいほうだ。「雨蛙」を、川端康成が絶賛していたとのことも、さもありなんと思う。川端なら、若い妻「せき」の初心なようで底知れない「女」の面と、意表を衝かれての驚愕が、同時に、せきに対する「いとをしさ」になる主人公の気持ちを、もっと鋭く審美的に書いたような想像も出来るので、だから、ある面、志賀の表現が野暮ったい気もする。が、むしろ、その野暮ったさ、下手さ加減(?)が、私には却ってリアリティを感じるし、「何時かあった話」として、真摯に耳を傾けることができた。



