◆「清兵衛と瓢箪」
作者自身の父子対立が投影された作品といわれていますが、
そのような文学史的知識がなくても、一篇の小説として、
非常に完成度が高いので、充分たのしむことができます。
清兵衛の趣味に対する周囲の無理解や理不尽な抑圧が露骨に描き出される一方、
清兵衛自身は、それに対して必要以上に萎縮したり鬱屈することなく、後には絵という
新たな趣味に目覚め、マイペースを貫いています。
その姿が実にすがすがしいです。
もちろん、清兵衛の目利きが確かなものであったと
証明されるくだりも、若干ベタですがやっぱり痛快。
ただ、そんな清兵衛をなおも苦々しく思っている彼の父が示す
「最後の一行」の行為は、今後の波乱を予感させ、不穏な余韻を
残しており、本作にふさわしい絶妙の下げだといえましょう。
清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)
|
処女作「網走まで」が興味深い。志賀直哉はだんだん成長していくタイプの作家ではない。初めから思想、モチーフ、創作手法、文体が完成された形で出現した作家だ。この短編も中期の「小僧の神様」も後期の「灰色の月」も、時代背景や状況は全然異なっているが、制作モチーフと人物の配置はそっくりだ。特権階級にいる(あるいは裕福な)主人公の前に、人生の断崖絶壁にいる(すくなくとも貧乏な)人物が現れる。そういう状況におかれた主人公の心の動きを、説明的文章を殆ど入れずに明確に読者に伝えることに成功している。心の動きとは、一種の「罪責感」を伴う「居心地の悪さ」と言ってよいだろう。自己満足的な「施し」には「不快な感じ」を覚え、一方、基督者的な「世界への無限責任(アガペー)」は到底背負えないとい拒否する。どちらに対する拒絶も常人離れして激しい。近代日本人の心の深部に在るものが、人物の些細な絡みの中に正確に表現されている。
事実上の処女作である「網走まで」を筆頭に、この本には、日本近代文学史の上に大きな足跡を残した志賀直哉の初期代表作が納められている。表題作にある「清兵衛と瓢箪」では、主人公である清兵衛の、無知ともいえるひたむきさと、陽性な諦めを簡潔な文体で描き、読後に心が動かされる。志賀直哉の文体の持つある種の透明感と、描写対象を浮き彫りにする表現は、既に彼の最も初期の段階から完成されていて、後の作品に引けを取ること無く青年期の彼の倫理的なものの見方をあらわしているといえる。「小説の神様」と呼ばれた彼の文学に、素直に入り込んでゆける一冊。


