全編にわたって気だるく薄暗い雰囲気が漂い、どこかしらネチネチとしてグダグダで陰湿な展開ぶりである。ゆえに思わず苦笑してしまった場面もあったが、読後にそれが不快という感情を呼び起こすことはなかった。むしろ今までにないフワリとした不思議な感覚を得た。ぼんやりと心地よささえ感じた。
「私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福など希わない」
「幸福などというものは、人の心を真実なぐさめてくれるものではない」
「私はただ、私の魂が何物によっても満ちたることがないことを確信した」
などと、印象的な文が散見される。
「続堕落論」には、文学は制度や政治への反逆と復讐であり、反逆と復讐自体が協力なのだと述べられているが、確かに「幸福を追求し何事にも前向きに積極的に生きよう、前進し続けよう」という現代社会のスローガンに対して、この小説は強烈なカウンターパンチを浴びせる代物だ。しかし、それを浴びせることもまた協力への一歩。むしろこの小説の側の方が生きている人間の真実なのかも知れないと思った。
白痴 (新潮文庫)
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いやぁ〜、まったく読解力の無い人たちのレビューが多くて驚いちゃいました。
「ひょっとして堕落しちゃったほうが人生楽なんでしょうか、みたいな話」?
凄いですなぁ〜、これ。
こんな風にしか感じ取れない人は、そりゃ、面白くないはずだ。
それは、まったく、この本を読んでいない事に等しい。
安吾は無気力な駄目人間なんかじゃない。
彼は常に戦い続けた。
ニートなんかと一緒にするな。
もし、この小説からニート的なものを感じるならば、それは、唯単に読者に読解力が無いだけである。
気安く現代の社会問題と結びつけて、評論した気になるなよ。
また、安吾からは文学性が感じられないという意見もあるが、それは、安吾が谷崎潤一郎などの美文を嫌い、「小説は文章よりも内容」という自説を説き、「悪文」こそが「美文」という安吾独自の逆説が、そう感じさせるのだろう。
そもそも「文学性」がある作品=良い作品なの?
なんで?
それに、「文学性」ってつまりはなんなの?
「ひょっとして堕落しちゃったほうが人生楽なんでしょうか、みたいな話」?
凄いですなぁ〜、これ。
こんな風にしか感じ取れない人は、そりゃ、面白くないはずだ。
それは、まったく、この本を読んでいない事に等しい。
安吾は無気力な駄目人間なんかじゃない。
彼は常に戦い続けた。
ニートなんかと一緒にするな。
もし、この小説からニート的なものを感じるならば、それは、唯単に読者に読解力が無いだけである。
気安く現代の社会問題と結びつけて、評論した気になるなよ。
また、安吾からは文学性が感じられないという意見もあるが、それは、安吾が谷崎潤一郎などの美文を嫌い、「小説は文章よりも内容」という自説を説き、「悪文」こそが「美文」という安吾独自の逆説が、そう感じさせるのだろう。
そもそも「文学性」がある作品=良い作品なの?
なんで?
それに、「文学性」ってつまりはなんなの?
坂口安吾の小説は基本的に暗い。たとえば、最初の短編「いずこへ」の書き出しはこんな感じである。
<私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。>
無気力で厭世的である。暗い。
もちろん、「考える気力」がなければ、こんな知的な文章を紡ぎだせるはずがないので、正確にこの状況を描写するならば、「何も考えたくない」という方が適切だろう。坂口安吾が生きた時代というのは、そんな息苦しい時代だったかもしれない。彼は1906年生まれ(生誕100周年で去年からたくさん本が出ているらしい)で、戦前に青年期を過ごし、戦中に壮年期を過ごし、戦後日本が明るくなっていく前に没した。ちなみにこの作品群は、戦後間もなく、日本がまだ荒土だった頃のものである。
で、作品に戻ると、何も考えたくないときに人間が何を考えるか、ということがこれらの作品群に描かれているとぼくは感じる。人間、なぜかは分からないが、何も考えないでいるということは非常に難しい。実際不可能である。煩悩とはほとんどあらゆる思考のことであるが、煩悩を捨てることがいかに難しいかは熱心な仏教徒でなくても分かる。
さて、思考を放棄したいときに人間はどうなるかというと、「思考を放棄するというのはどういうことか」ということを考えるようになる。そういう閉塞、逃げ道のなさを坂口は描いているように見える。「デカダン」とはそういう後退的なループに知的リソースを投入(浪費)することではないかと思う。表題作の「白痴」は象徴的で、「白痴」とは(象徴的に)何も考えない人を意味していて、作品内では語り手は白痴の女を侮蔑的に語るけれども、そこに裏返しの羨望を読み取ることはたやすい。
ということで、なんだか行き着くところのないどんよりとした思索を楽しめる人にはお薦めである。(要はあんまり今風じゃないのね)。
<私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。>
無気力で厭世的である。暗い。
もちろん、「考える気力」がなければ、こんな知的な文章を紡ぎだせるはずがないので、正確にこの状況を描写するならば、「何も考えたくない」という方が適切だろう。坂口安吾が生きた時代というのは、そんな息苦しい時代だったかもしれない。彼は1906年生まれ(生誕100周年で去年からたくさん本が出ているらしい)で、戦前に青年期を過ごし、戦中に壮年期を過ごし、戦後日本が明るくなっていく前に没した。ちなみにこの作品群は、戦後間もなく、日本がまだ荒土だった頃のものである。
で、作品に戻ると、何も考えたくないときに人間が何を考えるか、ということがこれらの作品群に描かれているとぼくは感じる。人間、なぜかは分からないが、何も考えないでいるということは非常に難しい。実際不可能である。煩悩とはほとんどあらゆる思考のことであるが、煩悩を捨てることがいかに難しいかは熱心な仏教徒でなくても分かる。
さて、思考を放棄したいときに人間はどうなるかというと、「思考を放棄するというのはどういうことか」ということを考えるようになる。そういう閉塞、逃げ道のなさを坂口は描いているように見える。「デカダン」とはそういう後退的なループに知的リソースを投入(浪費)することではないかと思う。表題作の「白痴」は象徴的で、「白痴」とは(象徴的に)何も考えない人を意味していて、作品内では語り手は白痴の女を侮蔑的に語るけれども、そこに裏返しの羨望を読み取ることはたやすい。
ということで、なんだか行き着くところのないどんよりとした思索を楽しめる人にはお薦めである。(要はあんまり今風じゃないのね)。
堕落することって気持ちがいいの? 全部捨てちゃえばもう何も失うものもないし高みを目指して努力する必要だってなくなるんだからひょっとして堕落しちゃったほうが人生楽なんでしょうか、みたいな話。
内容は非常に哲学的でシンプルな会話の中に作者の人生観やらが滔々と混じってだらだら語られるのでもういらいらしてしかたない。半分くらいまでしか読めませんでした。
内容は非常に哲学的でシンプルな会話の中に作者の人生観やらが滔々と混じってだらだら語られるのでもういらいらしてしかたない。半分くらいまでしか読めませんでした。
しばき倒すぞこのニート野郎が!!
と読みながら笑ってしまうギャグマンガ的私小説!
もうこれでいいじゃん(笑)
今ではニートなんて言葉も時代遅れな感じがするけどホントの落伍者はこれを読むな!美化してもメシは食えんぞ働け!!
「いずこへ」の感想です。
と読みながら笑ってしまうギャグマンガ的私小説!
もうこれでいいじゃん(笑)
今ではニートなんて言葉も時代遅れな感じがするけどホントの落伍者はこれを読むな!美化してもメシは食えんぞ働け!!
「いずこへ」の感想です。



