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それから (新潮文庫)
夏目 漱石
価格: ¥420 (税込)


出版社: 新潮社
発売日: 2000
ISBN: 4101010056
おすすめ度:4.5
Amazon ランキング: 9408位
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『それから』が気になる
主人公の代助は現在で言えばネオニートと言う言葉で一蹴されそうな身分。職につかず親の仕送りで生計を立てている。しかし普通のニートや引きこもりのように学びもせずただ娯楽に耽っていたりと言うことはない。彼は日々芸術など高尚な世界との交流を楽しみ学ぶ高等遊民であり、ニートと言う言葉で片付けるにはあまりにも舌足らずと言う気がする。

3回読んだが、難しいところが多い。三四郎より簡単だったと言う人がいたが、僕にとっては哲学的表現が多いように感じ三四郎より難解であった。

色々と難しい代助の人生観は度々理解できないものがあるが、共感できたりするところが多い。彼の人生観をただのニートの言い訳とみなすのはあまりにも勿体無いであろう。それはこの作品が100年経った今でも盛んに読まれていることによって裏づけされていると言える。

前半200ページ(いわゆる『起』の部分)はややだるいところもあるが、哲学が好きな人にはお薦めできる。後半の100ページ(ここに『承転結』が詰め込まれている。しかし個人的にはこの物語は転で終わっており、結は無いような気がする。結の部分は3部作の最後をしめくくる『門』で語られているのだろうか)で話は怒涛の展開を見せる。

しかし働かない身分での妻帯が許されて、不倫が許されないなんて、当時の社会の掟って現在と随分違うのね〜と思う。
難しいなぁ・・・
夏目漱石前期3部作第2弾。とある人は、本作から漱石の主題が始まったという。
前半は淡々と話が進む。正直退屈。
後半は、主人公代助が友人の妻三千代を放っておけなくなり・・・
いくら代助が高等遊民(ニートではない)とはいえ、個人的には平岡に同情したい。

さて、結末がちょっと凄いです。
世の中が動き出す。目の前は真っ赤。何だそりゃと思う人もいるかもね。

結局、代助と三千代がどうなったか描かれていないし、それからどうなったのかは謎。

漱石先生の小説はやっぱり難しいですな。でも昨日、知るを楽しむの再放送を見て
少し分かったような気がする。

世界文学史上、屈指の名作
夏目漱石こそは、生涯をかけて人間の孤独と真面目を追及した文学者であった。その最高傑作に「こころ」と並んで「それから」を上げる人は多い。主人公の代助は高等遊民であるが、不真面目な男ではない。友人の妻に恋心を抱き、苦悩していく。それは決して他人に打ち明ける事のできない孤独な苦しみである。そして物語は飾らず淡々とその圧倒的な結末へと登り詰めていく。一人の男の心理をここまで精緻に真正面から描き切った小説がはたして他にあるだろうか。この作品は近代日本文学の傑作であり、日本が世界に誇りうる屈指の名作である。
働かざる者食ってもよし!
何か難しい事を色々言っていますがこんなに自信満々に自由人をやってられる人を尊敬すらします。

後半のたたみかけが凄いです。

 
 
漱石と近代は3Pがお好き?
個室で書物と対峙するところに近代的自我は発生する。と同時にプライベートな空間が生まれることで初めてパブリックな空間も意識され始める。それまでは公私の別はなかった。基本的に近代化は「個の解放」=「プライベートな時空の確保」であったはずだが、もう一方で近代国民国家は軍隊と大学によって男たちを動員し、集団生活を課し、心身ともに規律を植えつける。会社や軍隊では公私の区別は明確ではなくなる。「個の解放」や「プライバシーの確保」は不十分となる。「個の解放」を推し進めたのがスキゾであるなら、公私の別の希薄な男の集団生活を支えたのが、ホモソーシャルとメランコリーである。女性は排除され、スキゾは居場所を失う。初発の動機は裏切られたのだ。

さらに人は一人では生きられないのでパートナーの問題が浮上する。漱石の主人公たちはパートナーとして男をプライベートな空間に招きいれる。逆にいうと、個室で女と対峙することを極端に恐れる。何故、パートナーとして女をプライベートな空間に入れないのか、大変奇妙だ。

しかし、そうした近代もそろそろ終焉を迎えようとしているようだ。個室にはネット端末が置かれ、公共の場にはケータイが持ち込まれた。再び公私の境界線は揺らいでいるのである。「アンチ・オイディプス」の唱えた脱属領化プロセスの行き着く果てとしてのスキゾは、単独性を希求してきたはずだ。しかし、ポストモダン社会において勝利しつつあるのは動物化したオタクであって、彼らには単独性、崇高、死の欲動はない。

漱石はもちろん、その門下生、江藤淳、柄谷行人にいたるまでホモソーシャルとメランコリーに対して、批判的な位置を確保できていないために、党派性に関係なく、彼らの近代批判は不十分なのだ。

素朴な疑問として、漱石ほどの知識人がもしかして自分はホモではないか?と懊悩する場面が見られないのがたいへん不思議である。



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