「惜別」は私の好きな作品だ。初めて読んだときは、正直、あまり印象に残らなかった。井上ひさし氏の著書『太宰治に聞く』に出会ってから、私の「惜別」に対する思いは一変した。
井上ひさし氏は、創作とは、誰も見ていない事実から、高貴な宝玉を捜し出す行為だ、という太宰の志に触れ、感銘を覚えた。この感銘が、井上氏に「人間合格」を書かせた。井上氏もまた、高貴な宝玉を捜し当てたのである。
では、太宰が探り当てた高貴な宝玉とは、「惜別」において、なんだったのか? それは、直接には、藤野先生が、ほとんど誰にも知られずに、「周さん」(若き日の魯迅)の講義のノートに、朱筆で加筆・訂正していた、という事実だった。いま、「直接には」、と書いたのには、それなりにわけがある。藤野先生の台詞にだいたい、こんなのがある。民族自決、といっては、他人事のようでいけない。民族自発、私はそれを期待しています。これに対し、「周さん」には、だいたい、こんな台詞がある。やっぱり、精神の問題だ。僕は、すぐに帰国して、文学運動を起こし、民族の自覚を促してやりたい。両者の台詞は類似している。さらに踏み込んだことを言えば、「周さん」は藤野先生の「期待」に応えようとしたのではないか。「惜別」には今挙げた藤野先生の発言を「周さん」が耳にした、という記述はない。しかし、だからと言って、「周さん」がこの発言を耳にしなかった、とは言い切れないだろう。それに、この手記の語り手は「周さん」と交流があったから、語り手を通してこの発言を「周さん」は聞いていた可能性もある。先生は教え子を励ます。教え子は、先生の「期待」に応えようとする。師弟愛、というべきだろうか。「師弟愛」。この言葉が太宰にとって、もっとも近しかったのは、『聖書』におけるイエスとその弟子とではなかったか。とすれば、この「惜別」は『聖書』のオマージュではなかったか。――なあんちゃって。
惜別 (新潮文庫)
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「右大臣実朝」「惜別」の2作を収録。
右大臣実朝は、東鑑からの引用を主体として日々起こり行く事柄を書き、
側近の人物の独白という形で太宰独自の解釈を加え、実朝という人物を描いてゆく。
この独白調は太宰得意の手法で、さすがに堂に入っており、鬼気迫るような完成度を感じる。
滅びの予感を持ちながらも超脱した姿を見せる実朝に、
太宰は貴族としての理想像を見ていたのだろう。
”HUMAN LOST”の中に、「実朝を忘れず」という一行があるように、彼の心の中には常に実朝があったのだと思う。
読後感は、どの小説にもない独特のものがある。
「惜別」
こちらは東北の老医師の手記、という形で、若き日の魯迅を語る。
が、この魯迅は、魯迅というより完全に太宰であり、読み進めているうちに魯迅の姿はまったく消えてしまう。
それを許せるか、許せないかでこの作品の評価は大きく変わるだろう。
右大臣実朝は、東鑑からの引用を主体として日々起こり行く事柄を書き、
側近の人物の独白という形で太宰独自の解釈を加え、実朝という人物を描いてゆく。
この独白調は太宰得意の手法で、さすがに堂に入っており、鬼気迫るような完成度を感じる。
滅びの予感を持ちながらも超脱した姿を見せる実朝に、
太宰は貴族としての理想像を見ていたのだろう。
”HUMAN LOST”の中に、「実朝を忘れず」という一行があるように、彼の心の中には常に実朝があったのだと思う。
読後感は、どの小説にもない独特のものがある。
「惜別」
こちらは東北の老医師の手記、という形で、若き日の魯迅を語る。
が、この魯迅は、魯迅というより完全に太宰であり、読み進めているうちに魯迅の姿はまったく消えてしまう。
それを許せるか、許せないかでこの作品の評価は大きく変わるだろう。
「右大臣実朝」は面白いと聞いて読んでみてがっかり,貴族の雅な世界観は私には理解しがたいものがあるようだ.まあついでにと二作目に収録されていた「惜別」を読んでみた.これは・・・素晴らしい!
中国の大勢の民を救うため,魯迅は日本の東北大学に留学してきて医学を学ぶ.だが祖国の現状を知った彼は,望んでいた救済は医学によっては得られ無いと判断,大学を去り,新たな道を模索することになる.
時が流れ,本当に多くの人を救うのに必要な「思想」を彼は手にし「狂人日記」「阿Q正伝」「故郷」等で知られる文豪魯迅は誕生する.読み応えは十分だ!
中国の大勢の民を救うため,魯迅は日本の東北大学に留学してきて医学を学ぶ.だが祖国の現状を知った彼は,望んでいた救済は医学によっては得られ無いと判断,大学を去り,新たな道を模索することになる.
時が流れ,本当に多くの人を救うのに必要な「思想」を彼は手にし「狂人日記」「阿Q正伝」「故郷」等で知られる文豪魯迅は誕生する.読み応えは十分だ!
この「右大臣実朝」は、個人的に太宰治の最高傑作だと思ってます。高校時代にこれを読んで人生観を動かされるほど感動しました。自らの宿命的な破滅を予感しながらも、現世を超越した雅の中にあえて耽溺する実朝の姿を描きながら、おそらく太宰は自分の理想とする生き方をそこに重ねていたのでしょう。某エッセイでも、(右大臣実朝を)書くのが楽しくてしかたないみたいなことを言っています。これを読まないで太宰は語れません。
あの大文豪魯迅が、いかにも太宰風に書かれていて中国文学や魯迅に興味がなくても面白く読める作品だろうと思う。魯迅といえば一般の人が知っているのは「故郷」と「藤野先生」くらいだろうか。しかし、この作品に登場する魯迅は、いかにも太宰のようで、思考に勢いはあり、学力もあるのだけれど、はにかみやで、揺れる存在として書かれている。結局彼の行き着くところは、やはり「作家にならう、作家にならう」(「思ひ出」)というところだろうか。



