「盲人独笑」がおすすめだ。何がいいと言って、挿入された歌がいい。
「上もなき 仏の御名をとなえつつ 地獄の種ぞまかぬ日ぞなき」。
この作品のあとがきのようなところで太宰は、これは、葛原勾当の日記を借りて創作した、ある一時期の自分の姿だ、と書いている。ある一時期とは、いつのことだろうか。
太宰とキリスト教とのかかわりは、深い。そこで今挙げた歌の「仏」は、キリスト教の「神」に読みかえられないだろうか。そう私は考えた。
福永収佑氏は『太宰治論―キリスト教と愛と義と』のなかで、太宰はその友人に、「僕はキリストを見た!」と語ったことを紹介している。太宰は、キリストをその目で確かに見た。すると彼の「目から、うろこのようなものが落ち」た。回心したパウロのように。ある一時期の太宰の姿、とはつまり、キリストを見る前の、ある一時期を指すのではないか。太宰はキリストを見る前の自分を「盲人」にたとえたのではないか。――んにゃわきゃ、ないか。
お伽草紙 (新潮文庫)
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個人的に太宰の真骨頂は、中期に書いた短編、中篇のあると思う。
というわけで新潮からでている一連の文庫の中では本書が一番のおすすめです。
面白いです。
というわけで新潮からでている一連の文庫の中では本書が一番のおすすめです。
面白いです。
「人間失格」「斜陽」「走れメロス」などと比べると知名度は劣りますが、これは面白いと思います。『新釈諸国噺』は西鶴から題材を借りた短編集で、太宰らしい現代語調と自意識、ユーモアによって丁寧に新訳されています。太宰らしさが感じられない作品もありますが、もととなる時代の雰囲気に、太宰の言葉がひょっこりと顔を出すと妙に可笑しくなりました。
『お伽草紙』は特にお薦めです。カチカチ山や瘤取り爺さんなどの昔話を独特の想像力で広げて、人間の有り様をユーモラスに書き出しています。どの話もまとめ方が絶妙に上手いので、教科書の『走れメロス』で止まっている方や、『人間失格』で暗いから嫌だと敬遠されている方もカチカチ山だけでも読んでみてください。ああ、狸が憐れだ。いくらなんでもあんまりだ、となりますから。
『お伽草紙』は特にお薦めです。カチカチ山や瘤取り爺さんなどの昔話を独特の想像力で広げて、人間の有り様をユーモラスに書き出しています。どの話もまとめ方が絶妙に上手いので、教科書の『走れメロス』で止まっている方や、『人間失格』で暗いから嫌だと敬遠されている方もカチカチ山だけでも読んでみてください。ああ、狸が憐れだ。いくらなんでもあんまりだ、となりますから。
ひねりがあって軽妙。味わい深いが重厚すぎない。
活字を楽しむってこういうことなのかと思えました。
個人的には浦島と亀の毒舌合戦がツボです。後をひく美味しさです。
ま、買わなくても読めちゃうんですけどね。
活字を楽しむってこういうことなのかと思えました。
個人的には浦島と亀の毒舌合戦がツボです。後をひく美味しさです。
ま、買わなくても読めちゃうんですけどね。
”ムカシムカシノオハナシヨ”
父が防空壕の中で長女に昔話を読み聞かせる、お伽草紙はそんなシーンから始まる。
「父は子供に読んで聞かせる。服装も貧しく容貌も愚なるに似ているが、元来ただものではないのである。
物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ」
父としての彼の中に、もう一人の小説家・太宰治がむくむくと顔をもたげてくる。
現実の中の自分、芸術に殉じようとする自分、このジレンマに対する太宰なりの結論が、作中から溢れ出す。
盲人独笑、清貧譚、新釈諸国噺、竹青、お伽草子の五編をこの一冊に収録。
既成の説話や古典を下地として太宰自身の空想批評を加え、独自の作品へ昇華させる、
これは彼得意の手法だが、本書収録作品では特に暢達自在、ユーモアを前面に押し出した筆致が大きな特徴。
「色が黒くて鼻が長くて」と誰かさんを思わす人物が数多く登場、自らを仮託し太宰は読者に示唆を与える。
出家遁世しながら却って浮世の辛さを味わう男を描く"吉野山"
理想郷から現実への回帰、そしてそれを肯定する"竹青"
菊は何のために?普遍的な疑問を投げかける"清貧譚"
助けた(妙に毒舌な)亀に連れられて、竜宮城に行ってみた浦島さん、
無為・無執着の境地に遊んでみつつ、結局は浮世に戻ってあんなことに。
俗世の生活と芸術、両立するには、適度な線での妥協が必要なのだ、
世間から逃げようとて、貧が迫れば世間のほうから追ってくる、
ならばこれが人間と諦めて、せめて愛らしく描いてみようじゃないか。
どの人間も滑稽で、いとおしく、そして哀しくもある。
ジレンマの中で、決然と「生きよう」とした当時の太宰の気持ちが伝わってくる気がする。
それは今を生きる僕らにも響く、太宰からのエールである。
父が防空壕の中で長女に昔話を読み聞かせる、お伽草紙はそんなシーンから始まる。
「父は子供に読んで聞かせる。服装も貧しく容貌も愚なるに似ているが、元来ただものではないのである。
物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ」
父としての彼の中に、もう一人の小説家・太宰治がむくむくと顔をもたげてくる。
現実の中の自分、芸術に殉じようとする自分、このジレンマに対する太宰なりの結論が、作中から溢れ出す。
盲人独笑、清貧譚、新釈諸国噺、竹青、お伽草子の五編をこの一冊に収録。
既成の説話や古典を下地として太宰自身の空想批評を加え、独自の作品へ昇華させる、
これは彼得意の手法だが、本書収録作品では特に暢達自在、ユーモアを前面に押し出した筆致が大きな特徴。
「色が黒くて鼻が長くて」と誰かさんを思わす人物が数多く登場、自らを仮託し太宰は読者に示唆を与える。
出家遁世しながら却って浮世の辛さを味わう男を描く"吉野山"
理想郷から現実への回帰、そしてそれを肯定する"竹青"
菊は何のために?普遍的な疑問を投げかける"清貧譚"
助けた(妙に毒舌な)亀に連れられて、竜宮城に行ってみた浦島さん、
無為・無執着の境地に遊んでみつつ、結局は浮世に戻ってあんなことに。
俗世の生活と芸術、両立するには、適度な線での妥協が必要なのだ、
世間から逃げようとて、貧が迫れば世間のほうから追ってくる、
ならばこれが人間と諦めて、せめて愛らしく描いてみようじゃないか。
どの人間も滑稽で、いとおしく、そして哀しくもある。
ジレンマの中で、決然と「生きよう」とした当時の太宰の気持ちが伝わってくる気がする。
それは今を生きる僕らにも響く、太宰からのエールである。



