「とりあえず一度は読んでおかないとなぁ」の軽い気持ちで手にし、『伊豆の踊子』を読んだところ、その瑞瑞しい美しさには清められる心地がしましたが、個人的には一緒に収録されている『抒情歌』に完全にやられました。
『抒情歌』は心に恋愛の深い傷を持つ人には涙無くしては読めないかも知れません。治まった傷の痛みが再び疼きだすかも知れません。しかし次第に竜枝の考え方に触れるにつれ、導かれるかのように救われていく心地がします。最後の部分と直後に訪れる読後の余韻は本当に美しいです。一気に涙が込み上げました。当然、悲しみや憎しみ、苦しみという負の感情からでは無く、浄化された喜びの涙です。
『抒情歌』は作品全体が一片の濁りも無い、清らかな愛で包まれた素晴らしい作品だと思いました。
『伊豆の踊子』、『温泉宿』、『抒情歌』そして『禽獣』。収録された全ての作品に於いて、諦観から来る心の安寧と無常観から来る精神の救済が共通している為に全体調和が取れ、且つ相乗効果を生むお得な一冊です。
余談ですが、それにしても川端康成は娘を描き出すのが本当に素晴らしい。『雪国』の駒子や『伊豆の踊子』の薫、『眠れる美女』の娘達、『抒情歌』の竜枝。彼女達は本当に魅力的で美しいです。清水のような瑞瑞しさと透明感を放っています。若い女や成熟しきらない青さの残る娘を書かせたら右に出る者はいないのではないでしょうか。 それらは川端康成という男の目線で書いたからこそ、同じ男である私の心をくすぐる女性を描き出す事が可能だったのでしょうか?女流作家が描き出す女性像では、かえって人間くさく生々し過ぎて、ここまで私の心を捕らえる事は無かったのかも知れません。
いつまでも夢を見続ける哀れな男だからこそ彼女達は生まれたのかも知れませんね。それこそ老人達に用意された『眠れる美女』のように。
えっ!? という事は、現代に於いて、世の男子諸君が虜になっている、ツンデレやメイド等の萌え現象の殆どが男達の手によって造り出されてる事と共通してるって事? 男にとっての女性の理想像を外ならぬ男が一番知っているのかも知れないと云うのは皮肉でありながらも至極当然な事かも知れませんが…。
伊豆の踊子 (新潮文庫)
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「伊豆の踊り子」は、数十年ぶりに読み返しました。ようやく、主人公「私」の心の動きを察せられるような思いがいたしました。そして、川端康成の言葉のきらめきに圧倒される思いがいたします。一語一語が氷の結晶にように冷たく、煌き、ヒヤリとさせられます。この作品を、若い頃の稚拙な文章で直したいという思いがありながら、若さの持つ瑞々しさにより書き直しをすることを作品が拒んだ、という逸話があります。若い日の無垢な正義感や不条理に抗する心が言葉の中に埋め込まれているのではないか、そんな思いです。川端文学を称する新感覚派というのは、言葉に置き換えられない、感性や思いを読む人の想像力を刺激しながら伝えてゆく文体でしょうか。日本語の特質、日本人の心情を汲み取った文学と思います。新潮文庫は、三島由紀夫の解説が掲載されている点もお勧めです。
川端文学の旗手とも言うべき(?)代表作。短編なので教科書にも採用されている模様。
大学生の主人公が伊豆に旅行した際に出会った芸妓の少女(おそらくは中学生くらい)に対して抱いた淡い恋心を紡ぎ出している。
旅先での行きずり・・しかもまだ相手は少女で年下とくれば、当時の恋愛感覚を考えても「適齢期のラブ・ストーリー」としては成り立たない。
少女が温泉に入浴中に全裸を晒しても恥ずかしがることもなく、主人公に向かって手を振るシーンが「少女の純潔」を表現し切っていて、いやらしさもなくかえって爽快ですらあるのだ。
この作品があるおかげで、東京から伊豆に向かうJRの特急の愛称が「踊り子」になったぐらいなのだ。
それ以前の伊豆行きの特急の愛称は「あまぎ」(伊豆にある天城山のことね)だったのだから、康成の作品としてどれ程多くの人間に浸透していたかが分かるというものだろう。
決して「結ばれることの無い別離」も、前述したことを考えれば当然の帰結。
お互いに「いいな・・・」と思いつつも別れてしまう・・って事、人生において結構あるのではないかな。
大学生の主人公が伊豆に旅行した際に出会った芸妓の少女(おそらくは中学生くらい)に対して抱いた淡い恋心を紡ぎ出している。
旅先での行きずり・・しかもまだ相手は少女で年下とくれば、当時の恋愛感覚を考えても「適齢期のラブ・ストーリー」としては成り立たない。
少女が温泉に入浴中に全裸を晒しても恥ずかしがることもなく、主人公に向かって手を振るシーンが「少女の純潔」を表現し切っていて、いやらしさもなくかえって爽快ですらあるのだ。
この作品があるおかげで、東京から伊豆に向かうJRの特急の愛称が「踊り子」になったぐらいなのだ。
それ以前の伊豆行きの特急の愛称は「あまぎ」(伊豆にある天城山のことね)だったのだから、康成の作品としてどれ程多くの人間に浸透していたかが分かるというものだろう。
決して「結ばれることの無い別離」も、前述したことを考えれば当然の帰結。
お互いに「いいな・・・」と思いつつも別れてしまう・・って事、人生において結構あるのではないかな。
何度読んでも良くわからない。踊り子は生娘とされているが、流れ者で体を売ることもあるようにも書かれている。踊り子に惹かれている主人公は、踊り子が買われるのではないかと心配で、一座と旅を共にしている。乞食と旅芸人お断りと村の入り口に書かれている、との記述から、旅芸人が被差別者であったことも分かる。その一座のものと私は「一緒に」旅をしている。泊まる宿は当然別の宿(主人公はちゃんとした宿、旅芸人はもっと下層の宿)だが。食事も別。風呂は一緒のようだが。宿の者から、あんな連中と付き合ってはいけない、とも諭される。私は最後は結局金がなくなり、一座とは下田で別れるのだが、船に乗るときも、切符は買いに行かせるし、金がないのに、餞別というか、チップを一座の者に渡す。上流階級の坊ちゃまが、旅先で出あった下層の人に心を寄せ、一時的に一緒に行動し、心が通い会い、そして分かれる。東京では絶対にありえないであろう出会いと別れ。踊り子は私を「いいひと」と評し、それに心が洗われたように描かれているが、どういうことなんだろう。踊り子を買わなかったからか?対等に付きあって、旅をしたからか?階級を超えて、共通の人間の魂のようなものに触れられたと思ったからか?昔の階級差や格差は今となっては想像を超えるが、どうにも理解できない、不思議なお話。
まずは短編のお話だったのにびっくり。
今回読んだ本には、4編の短編が掲載されておりページ数にすると
全部で200ページ弱でした。
伊豆の踊子は有名なタイトルで、映画にもなっているので
本をとったときに1冊すべてがそのお話かとも思っていました。
終わり方も、その後どうなったのだろうと思わせるもので
続編があるのではと思ってしまうような
色々と気になる部分を残して、あれこれ考えてしまいました。
今回読んだ本には、4編の短編が掲載されておりページ数にすると
全部で200ページ弱でした。
伊豆の踊子は有名なタイトルで、映画にもなっているので
本をとったときに1冊すべてがそのお話かとも思っていました。
終わり方も、その後どうなったのだろうと思わせるもので
続編があるのではと思ってしまうような
色々と気になる部分を残して、あれこれ考えてしまいました。



