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ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ
高橋 源一郎
価格: ¥2,940 (税込)

単行本
出版社: 集英社
発売日: 2005/04
ASIN: 4087747573
おすすめ度:4.0
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1ダメなものはダメ
作者のファンを自認するが、ダメなものはダメ。
決定的に発想が枯渇している。
無駄に長い。
まともに読むと一日はかかるので、その間2ちゃんでも見ていたほうがいいだろ。
ひとことでいうと、ダサい。
第弐齋藤が言ってたな。高橋源一郎は2ちゃんに殺されたと。ほんとにそうかもしれない。
4高橋源一郎らしさ
宮沢賢治の作品のタイトルと同じタイトルの作品が、24編収められている。しかし、同じなのはタイトルだけで趣はだいぶ違う。

<虔十はいつも縄の帯をしめてわらって杜の中や畑の間をゆっくりあるいているのでした。
 雨の中の青い藪を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせました。
 けれどもあんまり子供らが虔十をばかにして笑うものですから虔十はだんだん笑わないふりをするようになりました>(宮沢賢治「虔十公園林」書き出し)

<虔十のクラスの男の子はたいていゲームをやっています。ゲームをやらないのは、お父さんが「しっそう」して貧乏になったよしかわ博くんと、塾に行くのが忙しいし、お母さんがうるさいのでしばらく無理だよ、といっていた、にしの康くんぐらいです。しかし、貧乏になったぐらいで、ゲームができないなら、死んだ方がましだ、と虔十は思うのでした>(高橋源一郎「虔十公園林」書き出し)

ちなみに、高橋版で虔十がはまっているゲームは「聖処女マミちゃん」というゲームである。文体は似せているが、賢治ワールドとはぜんぜん違った世界が展開されている。

換骨奪胎と言うとあまりに陳腐な言い方になるが、高橋源一郎は、まんがでもアニメでもアダルトビデオでも映画でも、何でも気に入ったものは小説のネタにしてしまう人だから、今回、宮沢賢治がネタになっていることは別に不思議ではないし、むしろストレートなネタ使いである。重要なのは、ネタを料理して「新しい何か」を読者に感じさせていることであろう。

要するに、タイトルとは裏腹に、宮沢賢治は実はあんまり関係ない気がするし、別のタイトルをつけてもよいと思うし、タイトルだけ見て買った賢治ファンは怒るかもしれない。しかし、自分の作品のふりして他人の作品を模倣するゲイジュツカの方が、他人の作品のふりをして自分の作品を発表する高橋よりたちが悪いのは明らかである。
5(あしたね、世界が終わるの。)
 宮沢賢治もすっかり忘れていたので、宮沢賢治作品集とこの本とを交互に読み進めて行った。すると何だか不思議な気分に。「注文の多い料理店」も「猫の事務所」も、もともと高橋源一郎が書いたのでは……という錯覚に陥った、と言うか。たとえばこの本にも引用されている「グスコーブドリの伝記」の、ブドリが火山爆発の自己犠牲になることで、飢饉に苦しむ多くの農民を救おうとする箇所……“「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはさうはない。」「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから。」”……まんま高橋源一郎な文章でしょ?
 沢山のブドリの犠牲のもとに、七十年後の今、この国に飢餓に苦しむ人はいなくなったけれど、自ら餓死を選ぶヒロシとマサコも、援助交際をするマユちゃんも、職安に通い続けるキムラさんも、ボケが始まったらしい怪しい発言を家族に無視されるおじいちゃんも、出会い系のサクラをする「おれ」も、救われたくて救われたくてでも救われない。ブドリも竃猫もオッベルの白象も猟師の小十郎も救われなかったみたいに。
 「革トランク」の少女は「パパ」の机の上の絵は変だと言う。その絵は人が細すぎるし、本を読みながら飛んでいるし、馬が笛を吹いたり鉄塔に首が生えたりしているからだ。(シャガールかな)“「それは……それはおそらく、その人が見た夢なんじゃないかな」「あら、あたしはそんな変な夢は見ないわ。その人、ちょっとイカレてるのじゃないかしら」「この人は芸術家なんだよ」「ゲイジュツカ?パパもそう?」「その質問に答えるのも難しいね。つまり、その人は、答える代わりにその絵を描いたわけなんだよ」”……そうだ、宮沢賢治も高橋源一郎も、どうすれば彼らが救われるのか、答える代わりに小説を書くのだ。正義ではなく、含羞に満ちた文章で。
 ちなみに私はこの「革トランク」が一番好きで、二度読み返した。宮沢賢治の「革トランク」と響きあうリフレインが美しいし、この父と娘の対話は、十五年前の「ペンギン村に陽は落ちて」の序文(何度読み返したことか!)の、「しょうせつ」とは何かを考える父と息子の対話と、響きあっている気がするからだ。
5『呪文』とはなんですか?
宮沢賢治の作品を「翻案」(というか、タイトルやストーリーから連想させていっただけのような気もするが)した作品をまとめたもの。
600ページ近い単行本だが、そんな厚さを感じさせないほど、一気に読める。
徹底して不条理にしてリアルとパロディの筆致が揺さぶってくる。
近年の作品を踏襲したものではあるが、物語としての完成度、読み手の引き込み方が他の作品とは桁違いである。
「プリオシン海岸」「イーハトーボ農学校の春」「水仙月の四日」、中でもこの3つが秀逸だろうか。

「『呪文』とはなんですか?」
雪童子はいきなりそういった。そう訊ねた自分に、雪童子も驚いていた。
「『呪文』とは、ことばだ」老人はいった。
「『呪文』のことばと、ふつうのことばは違うのですか?」
「違わない。どれも、ことばとしては変わらない」
「じゃあ、どうして、ふつうのことばは『呪文』にならないのですか?」
「それは、ふつうのことばを『呪文』にするやり方を知らないからだ。どんなことばも『呪文』になりうるはずなのだ」
「どんなことばも『呪文』になりうるのなら、わざわざ、『呪文』のことばを覚える必要なんかないんじゃないですか?」
「雪童子、おまえはなかなか頭がいいようだな。あらゆることばは『呪文』になりうる。けれども、実際には、特別なことばしか『呪文』にならない。それは、ことばのせいではなく、それを使いこなせない『術使い』のせいなんだ。だから、我々は、まず、『呪文』として通用していることばを使いこなすことからはじめる。そのことを通して、ことばがどんな風に『呪文』になるのかを知ることになるのだ。そして、未だ『呪文』として目覚めていないことばが、『呪文』となることのできる道筋を探すのだ」
(「水仙月の四日」より)
この文章、まるっきり「さようなら、ギャングたち」じゃないですか。
『呪文』を『詩』に、『術使い』を『詩人』に置き換えてみてください。
僕はこの文章を見て、思わずにんまりしてしまいました。

5読んでても買い
「すばる」連載時にいくつか目を通して、単行本にまとめられたら読もうと思っていたので、さっそく読みました。コンセプトはわかりますが、情けないことにミヤザワケンジの作品自体に明るくないので読んでいて、自分は皮相をなぞっているに過ぎないといった居心地の悪さに絶えず苛まれました。こちらの目が悪くて底まで見通せないじれったさです。ただし、それを承知で暴言を吐かせてもらうなら、どの作品にも概ね「手癖」のようなものを感じました。適当かどうか自信はありませんが、ジェフ・ベックやボブ・ディランの新作を耳にした時と似た後味でした。十分すぎるほど予想がつくのに新しいのが出ると、またその同じ味わいを楽しみたいために懲りずに買ってしまう、ひとり予定調和といったところです。もちろん良い意味ですが。僕は楽しめました。

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