科学が純粋数学の問題だ、ということは素粒子論や宇宙論に限って言えることで物理・化学・生物の各分野全分野に渉ってそんなことは言えたものではない。それは一つになると言うよりは拡がりと厚みをいや増しつつあって、文学が言語の問題であるとは言えないことと端的に同じである。それにしても、言語への意思はヴィトゲンシュタインであれハイデガーであれフーコーであれ前世紀の主題となって前面に押し出されてきた。ダブリン市民に始まって若き芸術家の肖像、ユリシーズを経てフィネガンズウェイクに至る丁度四つの作品に体現されるジョイス文学はそれを一身に受けて立とうとしていたものだ。
生涯・作品・評価に章立てられた中でも一際、生涯がこの四つの長大だが一貫した稀少な作品によって語られることからすれば、副題とされる「二十世紀最大の」という形容はジョイス自身の自負であったとも言えよう。著者は柳瀬氏を評価していないというか触れられていない。本書はジョイスを論じているのであって翻訳を論じているのではない、翻訳不能なものの性急な評価はここでは差し控えるということではないか。集大成としての総合小説フィネガンズウェイクには六十以上の言語が凝縮されているという。しかし、実際これは翻訳を拒んでいるということではない。文学が言語を超えるという意気込みを表現しているに過ぎないのだ。別に英語でもアイルランド語でもダブリン語でもよかったのだが、それを超えて普遍文学を目指しているという意思が明白になるようにそうしただけだ。人間の思考の柔軟性、多様性、粘着性、・・・を縦横無尽に駆け巡る純粋思考自身によって健全に回復したいという果てしない願いとして結実したこの作品は研究者にも翻訳家にも一般読書人にも共有されている。
なお、同新書には両者を読む者はあまり居ないだろうに姉妹編のように鈴木道彦の『プルーストを読む』があり、どちらも捨て難い。
ジョイスを読む (集英社新書)
|



