日本人には仏教は馴染みの深い宗教ですが、あまり普段接することはありません。お葬式のときが一番接する機会が多いのじゃないでしょうか。しかし、日本人の生活にはしっかりと仏教は根を張っています。仏壇。お寺を家の中に置いているようなものではないか。観光でお寺に行った方は、必ずお賽銭をし、手を合わせます。仏教は生きています。仏教ブームというのがあるようですが、日本人のこころが仏教を再び欲しているのではないでしょうか。そんなことを感じました。日本人のこころは危うくなっていると思います。日本人は、あいまいと言われ、論理的な事柄が良い様な風潮がありますが、日本人の原型に合わない思考方法が負担を課しているように思えます。仏教を学ぶことは、こころの旅を始めることのように思います。日本人の心は余り論理的ではありません。神仏、さらにクリスマスも祝える日本人のあいまいさ。現代の合理主義。日本人のこころの負担がとうとう限界に達したのではないかと感じました。著者の仏教に関する作品にはいつも慈悲を感じます。今まで使ってきた何気ない言葉にじんとした感じたりします。素直な自分がみつかるような気がしました。
仏教のこころ (五木寛之こころの新書)
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日本仏教に関する挺出した解説書としては、私は『梅原猛の授業・仏教』(朝日新聞社,02年)を推したい。しかし、この「こころの新書」シリーズ第1冊目である『仏教のこころ』は、哲学者・梅原猛先生の該博な解説とはまた違った、五木寛之氏の作家としての独得な視点、感性から生まれた作品となっており、一般的な仏教の入門書とは趣を異にするものである。
勿論、両氏の共通項もある。たとえば、梅原先生が前掲書で仏教における「多(た)の尊重」という文脈での「寛容の徳」「慈悲の徳」を強調されていたが、やはり五木氏も日本仏教の特質といえるシンクレティズム(混淆主義)やアニミズム(自然崇拝)との関連で、トレランス(寛容)や共存・共生の精神の重要性を本書で語っている(それ故、両氏とも「文明の衝突」論には批判的である)。
それはさておき、五木氏が説く「仏教のこころ」の中心的な概念は、同シリーズ12『自力と他力』(06年3月)において展開されている「他力」であろう。それは、法然、親鸞、蓮如などの宗教者が切り拓いた浄土系の信仰であるけれども、五木氏は、この「他力」こそ「自力の母」であり、「21世紀の重要なキーワードとして新しいイメージで再生させたい」としている。
五木氏は、本書で「ブッダの教え」が土台となっている仏教について、「この世の暗く苦しい夜の道を照らしてくれる光であってほしい」と述べている。氏は、「ブッダの教え」の原点に立ち返りつつ、「他力」を軸として仏教思想の今日的な意義を見いだそうとしており、その試みは、寄る辺なき時代を生きる私たちに一条の光をもたらしてくれるかもしれない。
身にしみる。著者がからだで理解し感じた仏教の今を語る。二千年以上の歴史をもち、とりわけ日本というこの国で独自の光をはなった仏教を、現在の、どうひいき目に見ても「良い」とは言いにくい時代を生きる私たちはどう受けとめていったらよいのだろうか。そういう問題を考えるための、やさしい言葉がここにある。
百時巡礼の経験がやはり大きかったのだろうなあ、と本書を読んでいて思った。仏教をある種の高邁な「哲学」と捉えて考察を深めるのではなく、あくまでも日々の生活におわれて「それどころではない」ふつうの人々の視点でつきつめようという姿勢が確固としているのである。全国各地の寺々に集い、目先の辛さや悩みをできるだけ少なくし、家族や友人の死後の安穏、ひいては自分の死に対する恐怖の削減をもたらしてくれる仏教に期待する人たちのイメージが、著者の文章の背後にすけてみえる。
本当にやさしい、と思う。人にやさしい。自分の知らない苦しみのもとにある人と一緒に泣いている。固い言葉を使わせてもらえば、まさしく「慈悲」の生きた姿がそこにある。
百時巡礼の経験がやはり大きかったのだろうなあ、と本書を読んでいて思った。仏教をある種の高邁な「哲学」と捉えて考察を深めるのではなく、あくまでも日々の生活におわれて「それどころではない」ふつうの人々の視点でつきつめようという姿勢が確固としているのである。全国各地の寺々に集い、目先の辛さや悩みをできるだけ少なくし、家族や友人の死後の安穏、ひいては自分の死に対する恐怖の削減をもたらしてくれる仏教に期待する人たちのイメージが、著者の文章の背後にすけてみえる。
本当にやさしい、と思う。人にやさしい。自分の知らない苦しみのもとにある人と一緒に泣いている。固い言葉を使わせてもらえば、まさしく「慈悲」の生きた姿がそこにある。



