世紀末の隣人 (講談社文庫)
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この作品の向こうに彼の書く小説が見える。
彼の基本姿勢が色濃く反映されていて、彼の小説を読む上で非常に参考になる作品である。
そして、自分も「隣人」になるかもしれないとおもったとき、
彼の優しさがよりいっそう感じられるのだ。
しかし、期待はよい意味で裏切られました。
やはり、重松清は重松清でした。
悲惨で凶悪な事件をルポしながらも、そこから再生の糸口を見つけ出すという、この人にしか書けない作品だと思います。
世の中には、悪い人はいないんじゃないかと思うくらい、やさしさに溢れていました。
池袋通り魔殺人や音羽幼女殺人、和歌山ヒ素カレー事件など世紀末に起きた事件の数々に重松清が迫る。
ルポタージュにも関わらず彼の小説と全く同じように人間の奥底に潜む孤独や欲望を描き出していく。
彼の小説っていつもどこか痛々しい。なぜだろう…。それは、あまりにも読者の痛みを描き出しているからではないか、と思います。
重松清が小説で描く痛みや孤独は世の中の痛み。言葉にならない私達の痛み。だからこそいつも共感してしまう。
このルポタージュでも彼の姿勢は全く同じです。「お受験」で片付けてしまった音羽の幼女殺人事件、
彼はその裏側にある孤独にどんどん迫っていく。無理やり誰かとつながっている孤独…。
「お受験」という特異な世界が「なんだ、自分と同じじゃないか」、という世界に還元されていく…。
なんだ、「世紀末の隣人」って自分のことじゃないか、と気づかされてしまう。
12のルポタージュが万事そうした展開で進み、自分の12の孤独が暴かれる…。
ルポタージュって正直私は好きじゃない。どうしても独善的になっちゃうから…。
でも、重松清は「寄り道」ルポです!取材もちょっとです!と独善的なのを標榜しながらなぜか気がついたら私達の傍にいる。
何か、すごく心の中をえぐられた感じがして、重松清の後を追って音羽とニュータウンには行ってみようかな、と思いました。
当事者達がどうしても他人に見えなくなったから…。隣人どころか、自分そのもののような気がしてきたから…。
重松清が好きな方は小説同様、もしくはノンフィクションなだけそれ以上、痛みを感じられる作品だと思います。
また、「遠くて近い隣人達のドラマに寄り道しつつ迫ってみると、そこにはあなたとよく似た顔が―」の裏表紙の文句に
惹かれた方は是非読んでみてください。



