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アサッテの人
諏訪 哲史
価格: ¥1,575 (税込)

単行本
出版社: 講談社
発売日: 2007/07/21
ISBN: 4062142147
おすすめ度:3.5
Amazon ランキング: 90186位
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自分の勝手な想像とは違っていました
本そのものの見た目とタイトルで、勝手に自分の中でイメージを作り上げて読み始めました。
(オモシロイ話を想像していました)
冒頭から、予想とは全く違うものであることが判明。
長い長い言葉がどんどん続き、なんともいえない違和感を覚えながら「。」は何処!? と
少々不快な気持ちで読み進めながら、これは最後まで読めないかもしれない…と不安がよぎりましたが
途中から惹き込まれ、一気に読了しました。
思春期に「存在」って何だろう。「生きる」ってどういうことだろう。などと考えた事を思い出しました。
どうして?
この小説がほんとに賞をいただいたのだとどうしても思えない。それも、かなり審査員の皆さんには受けが良かったらしいではないか?いったいどうして?というかんじだな。

まぁ、たしかに今までなかった小説?であるのかなとは思うけど、しかし、無理して読むほどの小説ではなかった。ほんとにみなさんはこの小説を面白いとか思ったのだろうか?

私は読むのを何度も止めては読んでを繰り返し、半年かかって読み終えた。しかも2回も読み返した・・・が、無駄だった。おそらく私とは合わなかったのだろうと自分を慰めた。
どこか遠くへ
 文章や表現の上手さというよりも言葉のもつ「音」や「響き」に焦点を当てた作品かと思います。異なる形式の文章を組み合わせることで一つの小説としている構成も実験的で面白い。ただし物語性を期待する方にはお薦めできないと思います。
 成人するまで吃音で扱える言葉の少なさに悩んだ叔父、吃音から復帰するも世にあふれる言葉の価値の軽さに悩む叔父、そして「アサッテ」な人間との邂逅を経て再び吃音の時期にもっていた一語の重みを取り戻そうと試みる叔父、妻との心地良い日常と脱却とを繰り返すことで安定する叔父、妻と死に別れやがて一語の重みに潰されていく叔父。意図的な「アサッテ」を試み、その基盤となる日常を失った時点で叔父の失踪は決まっていたのかもしれません。
 読み終わり、最初の『神経の秤』からの引用文を読むと納得がいくと思います。言葉のもつ本来の意味、一語が及ぼす影響、常に心がけているわけではありませんが、そういったものを感じたことのある方は大いに共感できるかと思います。
ただ詰まらない
言葉の規則に不快感を持っていた叔父を通して、その「秩序」を抜け出した「アサッテ」を見つめる作品。
話自体は動くものでなく、作者が淡々と叔父のことを日記などをもとに分析していくもの。

小説を読むのが楽しくて本を読んでいる人は読まないほうがいいと思います。
登場人物のキャラも弱く、物語的展開はありません。
文学を学んでいる人が研究の一環として読む本なんじゃないかと。

学の無い私は、この本を読むのが詰まらなくて苦痛でした。ブンガク的な演出なんて分かりませんので、ダラダラな文が無作為に続いているようにしか見えません。
「アサッテにも型が発生する」というのが、この本の要点ですが、このことで私はなにも感じなかったです。それがこの評価の一番の原因でないかと。

一度数ページ読んで、さらにページを捲りたいと思ったら購入すべき本だと思います。芥川賞の名前を信用して、つまりは自分にとって面白いに違いないと買ってしまうと後悔するかもしれません。
この値段なら、自分の優れていると思っている作家の文庫本が二冊買えてしまうのですから、そっちのほうが有意義でエコロジーです。
規律からの逸脱でしか、世界は動かない。

通勤電車でしか読んでないけど読むのに2週間かかった。長かった。
あまり覚えていることはない。
洋画で登場人物の顔が区別できないように、叔父と祖父の区別ができなかった。
哲学科出身の匂いがプンプンして、
小説家が日記を書いているのを小説にするという『ソフィーの世界』的構造から、
太字を使ったり、いろんな方法を駆使して、逸脱を計画している。

叔父の吃音が治った様子は、幼児が言語を獲得する様子のメタファーであるように思えた。
幼児は語りだす頃には既に言語を獲得しているので、獲得以前と以後を言葉で表現することはできない。
だが、吃音ならそれが治る前と後を言葉で言い表すことはできる。
ここを巧みに使っている。

生きていてたまにふと、ここでおもいきり「うんこー!」と叫んだらどうなるのだろう?
などとしょうもないことを考えることは私だけじゃないと信じたいが、誰しもあるだろう。
生まれてからずっと常識以前の様式のような社会システムに束縛され続けている。
そこから逸脱したいという本能を人間は持っている。
そういう部分を作者は、非常に端的に表してくれた。わかりやすい例はチューリップ男。
だが、作者自身も気づいているように、その逸脱もまたシステムの一部として吸収されるのである。あるいは神さまのプログラムの範疇である。

このあたりの自己や神との戦い。いわゆる普通の人はしなくてもいい。彼らは既に克服していると言ってもいい。
だが、中には障害を持ってしまい、必死に戦ってしまう人がいるのだ。
人間は自由の刑に処せられている、と言ったサルトル。
人間は意味の刑に処せられている、と言ったメルロポンティ。
こういう人たちは、戦ってしまう残念な人。

哲学のセンスとでもいうのだろうか、それがあるかないかによって
良くも悪くも作品の解釈はぜんぜん違うものになるだろう。
ただ、2年もかけて書く作品とは自分には思えなかった。
この人は、これから小説で食っていけるのだろうか。
とにかく、次回作が楽しみだ。
何かエラソーなレビューだ。スマン。



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