いつでも同じ雰囲気の作品を書いているように見せて、伊井氏は、実は毎回実験しているように僕は思う。
そして、(作品刊行の最初から読んでいるわけではなく、作者としての)長年、実験をしてきた成果として、今回のこの「愛と癒しと殺人に欠けた小説集」があるのだろう。たぶん、作者もあとがきに書いていたように思うが、その(決してそのことが文学を揺るがしたりしない個人的な)成功を自負しておられるだろう。
視点の問題を作品提示で示す作家もなかなかいない。他の方のレビューにもあるように、おおぴろげて批評するのでもなく、ユーモアとして異常を語ろうとしたりと、それこそが、伊井氏の文学に対する誠実な姿勢である。決してひねくれているわけでもなく、不機嫌なこともないはずだ。とくにこの小説集の完成は上機嫌でいないわけがない。僕はそれほど、この作品集が良く出来ていると思う。
文体の成功も、この小説集の成功を支えている大きな柱であることを、最後に付け加えておく。
愛と癒しと殺人に欠けた小説集
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タイトルからして辛辣である。なんたって今の世の中(nearly equal ブンガク)、「愛」と「癒し」と「殺人」でほぼ成立してる訳だし。
「小説を読んで愛やら癒しやらを感じるとしても、そういったものは小説の本質そのものではない」と考える伊井直行のまっとうな小説がベストセラーになることは、残念ながらここ当分ないだろう。読者としてはとりあえず、ちゃんと単行本が出る程度の部数、コンスタントに売れてほしいと、勝手ながら切に思う。
伊井直行はだからといって、ひねくれてマイナーを志向している訳ではなくて、「世界は理解されなくてはならず、世界は生きている人々の眼前に像として提出される必要がある。小説にはそれができる、と信じたい」という頼もしい言葉を「前書き」に記していて、実際ここに編まれた小説もその志が感じられるものばかりだ。特に「ヌード・マン」。無理やりっちゅーか、比べるのもおこがましいけど、「セカチュー」と「ヌード・マン」の二択だったら、純粋な感覚で「ヌード・マン」選ぶ人と俺は付き合いたいね。ヌード・ウォークの快感って、色んなメタファーだと思うけど、“ノーパンしゃぶしゃぶ”みたいなものが一般化、日常化しちゃうと、その快感、その価値って極度に薄れちゃうよね。“ノーパンしゃぶしゃぶ”に類することとしては、“電車内での化粧”とか“路上ベタ座り”とか色々ある訳だけど。「ヌード・マン」の言葉を借りれば「タブーがあるからこそ、それを侵犯できるのだ」ってことである。言葉にするとアレだけど、節度とか謙虚とか身の程とか、大事なことだと思うなぁ。
そうそう、あと、この短編集のキーワードは“ケータイ問題”だよね。誰もが「外」とつながってて、タイムラグやすれ違いがないケータイの出現ってブンガク(nearly equal 今の世の中)の在り方を大きく変えたんだなってことがこれ読むとよくわかるね。
「小説を読んで愛やら癒しやらを感じるとしても、そういったものは小説の本質そのものではない」と考える伊井直行のまっとうな小説がベストセラーになることは、残念ながらここ当分ないだろう。読者としてはとりあえず、ちゃんと単行本が出る程度の部数、コンスタントに売れてほしいと、勝手ながら切に思う。
伊井直行はだからといって、ひねくれてマイナーを志向している訳ではなくて、「世界は理解されなくてはならず、世界は生きている人々の眼前に像として提出される必要がある。小説にはそれができる、と信じたい」という頼もしい言葉を「前書き」に記していて、実際ここに編まれた小説もその志が感じられるものばかりだ。特に「ヌード・マン」。無理やりっちゅーか、比べるのもおこがましいけど、「セカチュー」と「ヌード・マン」の二択だったら、純粋な感覚で「ヌード・マン」選ぶ人と俺は付き合いたいね。ヌード・ウォークの快感って、色んなメタファーだと思うけど、“ノーパンしゃぶしゃぶ”みたいなものが一般化、日常化しちゃうと、その快感、その価値って極度に薄れちゃうよね。“ノーパンしゃぶしゃぶ”に類することとしては、“電車内での化粧”とか“路上ベタ座り”とか色々ある訳だけど。「ヌード・マン」の言葉を借りれば「タブーがあるからこそ、それを侵犯できるのだ」ってことである。言葉にするとアレだけど、節度とか謙虚とか身の程とか、大事なことだと思うなぁ。
そうそう、あと、この短編集のキーワードは“ケータイ問題”だよね。誰もが「外」とつながってて、タイムラグやすれ違いがないケータイの出現ってブンガク(nearly equal 今の世の中)の在り方を大きく変えたんだなってことがこれ読むとよくわかるね。



