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李陵・山月記―弟子・名人伝 (角川文庫クラシックス)
中島 敦
価格: ¥500 (税込)

文庫
出版社: 角川書店
発売日: 1995/05
ISBN: 4041103029
おすすめ度:5.0
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疑問符(=?)を発してしまう悲しい癖をもつ主人公たち
 『山月記』『李陵』など、中国の歴史や哲学を題材に作品を書いた中島敦。高校の教科書によく載っている『山月記』は、中国の官吏であった主人公が詩人としては不遇なため納得がいかず、その果てに虎になってしまうという話。中島敦は、自分の置かれた境遇に納得がいかず、ふと考えて疑問符(=?)を発してしまう悲しい癖をもつ主人公を登場させる。『弟子』では、論語で有名な孔子の弟子で、孔子を尊敬しつつも「???」と、納得がいかない子どものように駄々をこねる「子路」。また、西遊記を題材にした『悟浄出世』『悟浄歎異』では、河童の世界でも孫悟空と旅をしながらも「なぜ?」を発し続ける「悟浄」。主人公たちは安易なコトバで「救われる」のではなく、中島敦の温かいまなざしに見つめられている。「類は類を呼ぶ」というけれど、こういう生き方もあるんだと、私をホッとさせてくれる。

●「私」を不問にする=レトリックを使っていると意識させない「レトリック」
 中島敦は孔子の門下の子路を主人公にした『弟子』のなかで、子路にこう語らせている。(夫子とは孔子のことである。)
「夫子は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁がうますぎると思う。これは警戒を要する。宰予などのうまさとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、うまさが目にたちすぎるゆえ、聴者に楽しみは与ええても、信頼は与ええない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢さの代わりに、絶対に人に疑いを抱かせぬ重厚さを備え、諧謔の代わりに、含蓄に富む比喩を有つその弁は、何人といえども逆らうことのできぬものだ。もちろん、夫子のいわれるところは九分九厘まで常に謬りなき真理だと思う。また夫子の行なわれるところは九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範とすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘 ── 絶対に人に信頼を起こさせる夫子の弁舌のなかの・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理とは必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられる惧れがある。警戒を要するのはここだ。」

 ここで子路が警戒しているのは、客観的に見える文体に埋没されている「話し手の判断」である。文章上には話し手が登場することがなく、地の文の中にひそかに「私」が隠れている。この「私」を不問にするレトリック、レトリックを使っていると意識させない「地の文に話し手の主観を埋没させる手法」は上手に使えば「角が立たない」ので人間関係を円滑にするが、悪意を持って使えば「誰」が判断しているかを不問に付したままで大衆操作にだって使える。

 「誰」が不問にさせているのかを問わないでいる、というのも生きる知恵だが、問いを発したり、混沌とした状況に「けり」をつける「メタ判断」する生き方もある。でも、その生き方を貫いて、子路みたいに最期は「膾(なます)」のように切り刻まれたり、プロメテウスのように人間界に火をもたらした罰として禿鷲に肝臓をついばまれたり、「プラトンの洞窟の比喩」に出てくる外界を見た人みたいに真実を告げて皆に理解されず打ち殺されたり、トロイの木馬の危険性を指摘したラオコーンみたいに海ヘビに咬まれて死んじゃうのは、ちょっといやだなぁ。 2003-1-5記す
真似は不可能。
不思議なことなのですが、体調不良時に何となく手にすることが多いようです。体調が悪くても読み進めるのが苦にならないという説明困難な魅力をたたえているからです。
シンプルなのに典雅で格調高い、文章/人物造型/作者自身の精神性によるものなのでしょうか。
また読み終えた後に情景が『版画』のような形をとって現れ、忘れられない余韻を残します。

何だかレビューというよりは感想になってしまいましたが、それら作品達の特殊な存在感は今後不世出であろうと思います。漢字の分からない私でもそのことはよく分かる気がします。
意味のある難解さ
中島には漢学の素養があり、文章中に難解な語句があるが、読み仮名が振ってある他、かなりの注釈と地図があり、私は1ヶ月以上の時間がかかったが、本書を読み切った。

「李陵」、「山月記」など全ての小説は昔の中国が舞台になっている。中国文化に関心のある人にはおもしろいだろう。現代の感覚からは異常なエピソードも書かれている。

最も良いと思ったのは、継続的な努力、切磋琢磨の重要性について訴える「山月記」。私は高校生の時に教科書で読んだことがあったが、再読の価値はあった。
お買い得
タイトルになっている李陵、山月記、弟子、名人伝のほかに、欝気味な沙悟浄の二つの短編がついて、中島敦の本の中でも読み応えのあるものがぎっちりつまっていて、大変にお買い得な一冊。
とりあえずこれから中島敦の本を買おう、という人には、この角川版はまったく飽きのこない話ばかりになっていて、とてもすばらしい。
格調高い珠玉の短編がズラリと並ぶ一冊
 渡部昇一氏が幾つかの著書で、中島敦『弟子』の生き生きとした孔子像に影響を受けた、と記しておられるので原典に当たってみました。『弟子』の他、本書には、漢の武帝に仕え僅か五千の歩兵で匈奴と果敢に戦った李陵を題材とする『李陵』、弓の技は神仙に至るほどの名人・紀昌の不思議な晩年を扱った『名人伝』、虎になった詩人の話『山月記』、西遊記でお馴染みの沙悟浄が三蔵法師に出会うまでを描いた『悟浄出世』と悟浄の視点からの悟空や八戒、三蔵法師の人柄を書いた『悟浄歎異』、が収録されています。

 6編全てが珠玉と言ってもよい出来栄えです。画数の多い漢字がやたらに多い文章にもかかわらず、一度読み出すとあっという間に読み切ってしまう面白さはモチーフとなる人物の躍動感と人間臭にあります。『弟子』では『論語』の堅苦しいイメージはなく、遊侠の徒だった子路の視点から、実学に富んだうえで理想を掲げて生きる孔子像が生き生きと描かれています。この孔子像は生身の人間が持つ生活感があり、それでいて尊敬の念を減じさせることがない素晴らしい描きぶりだと思います。

 また、『山月記』は我が身を強く省みさせる一編です。人から虎に身になった主人公の李徴の独白に現れた欲とそれによる苦悩は胸を打ちます。単に浅ましい存在と李徴を断じることはできません。彼を虎たらしめた欲は私たちも抱えているものだからです。虎の身で再会した友人・袁慘(えんさん)に困窮した妻子への援助を頼む前に、虎の身では世に出せなかった自分の詩を託す気持ちは仕事で身を立てようとする人には多かれ少なかれ存在する心情ではないでしょうか。

 私は文学研究家ではありませんが、中島敦の作品は登場人物の心情描写が的確でいて簡潔でありながら、それでいて人物ごとに異なる思考と行動を明確に、差異を付けて描き切っている点に強い魅力を感じます。ぜひ、手に取って頂きたい一冊です。




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