誰も誰しも日常の中に嘘というものを含めないと満足に生活を営むことすらできない。それは仕事の上でも人間関係においても、時には家族であっても変わりません。もしもこの世に一切の嘘を許さない社会・家族・共同体があれば、人はその息苦しさに思わず窒息してしまうでしょう。けれど「うそをついてはいけません」と諭されなかった人がまずいないように、すべてが嘘で塗りつくされた世の中もまた同様に重々しいのです。では我々の生活において嘘と真実とは一体どこで住み分けをしているのか?
イプセン『野鴨』はこうした根源的な問題を扱った作品です。大衆の偽善と虚偽を『民衆の敵』で非難した彼は、今度は方向を180度転回し、公正と真実を謳う人物グレーゲルスを非難の的として創作しました。「人生の嘘っていうやつは人を活気づける力を持っているからね」という医師レリングの言葉を受けても、なお正義の力を疑わないグレーゲルスは聖人のように強靭な心を持っていますが、かえってそれゆえに他人を幸福にすることができません。決して届かない理想を置き、どんな不正も見逃せなくなる病・正義病にかかった人物は他人のことを考えている風でその実、自らの正義欲とも言うべきものを満たしているに過ぎないからです。
正義という言葉があまり聞かれない現代、その行き過ぎが引き起こす混乱を扱う本作を読むのはむしろ有益であるように思います。200ページ程度の戯曲が、社会、家庭についての考えに一石を投じてくれることでしょう。個人的にイプセンの最高傑作と思います。
野鴨 (岩波文庫)
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