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魔の山〈上〉 (岩波文庫)
トーマス マン関 泰祐望月 市恵
価格: ¥903 (税込)

文庫
出版社: 岩波書店
発売日: 1988/10
ISBN: 4003243366
おすすめ度:4.0
Amazon ランキング: 35784位
発送可能時期: 在庫あり。

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とんちんかんなレヴュー
 ハンス・カストルプとショーシャ夫人との片言での語らいが、どういうわけか、私の目には、大変、魅力的に映った。
 あるいは、これは、私の好きな太宰、その小説、「右大臣実朝」の実朝の言葉の影響かもしれない。アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハ、マダ、滅亡セヌ。という言葉に代表されるように、作中において、実朝の言葉は、片仮名交じりで表記されており、実朝が普通の人間とは違う次元にいる住人であることが、まず目を通して、次に耳を通して、――それは、片言の日本語だ――肉感的に伝わってくる。
 お互いがお互いの〈自分語体系〉を発見しようと努めること、それが、美しいコミュニケーションの方法である、と私は思っている。これを実践したのがハンス・カストルプとショーシャ夫人とである。
 私のおぼろな記憶が確かならば、ショーシャ夫人は、ハンス・カストルプの母国語に合わせて、片言で言葉を発する(あるいは、逆であったかもしれない)。相手が話す言葉に、自分を合わせようとする、しかし、そこにはぎこちなさが残っている、何とも味わい深い場面である、と私は思う。相手に近づきたい、でも、どうしても、届かない、その微妙な距離が、片言の言葉によって、見事に表現されている。しかし必ずしも、別に母国語が異なっている必要はない、方言・標準語の差異も問題ではない。私たちは、一人ひとり、〈自分語体系〉を持っている。それは、フロイトによって示された、〈自由連想法〉が導き出す、その人しかもっていない、言語体系だ。たとえば、私の場合は、太宰といえば、キリストを、キリストといえば、架け橋を、架け橋といえば、サイモン&ガーファンクルを連想する、という風な。
 私は、やはり、自身に〈外国人〉を感じている。カタカナデ、書コウカシラ?
 
教養小説って響きは堅苦しいけど
学業を卒業し、職場に勤務するようになる直前、
ぼんやりと無気力に陥っているハンス・カストルプは、
気晴らしと療養を兼ねて、従兄弟の居る山奥のサナトリウムに滞在することを勧められる。
山では下界と違った時間が流れ、病人たちが日々独特の生活を送り、
その大抵のものは長く留まりすぎて下界に帰るところをなくし、魔の山の住人となってしまう。
山を下りたがる者、山を出入りする者、山で死ぬ者、山で諭す者、
あらゆる登場人物がそれぞれ教訓となっている。
ナフタとセテムブリーニの論争、特にナフタの発想は面白かった。
教養小説と言われてますが、正直難しかったです。
文章に読み難さを感じなければ、大半は山で繰り広げられる
ドタバタコメディーだと思って気軽に読めます。
買いですが・・・。
トーマス・マンの代表作と目される「魔の山」の岩波文庫版で、かつては四巻で出ていたのを上下二巻に分けたものですが、四巻で親しまれた方も多いのではないでしょうか。題名の「魔の山」とは山麓のサナトリウムの別名です。物語は展開としてはたいへん平易で、ハンス・カストルプという青年がサナトリウムに入所している従兄のヨーアヒムを当初三週間の予定で訪れ、そこで目にし接する人間模様が描かれているだけです。しかし、その描き方は写実的かつ丹念を極め、本作が見るからに分厚い大作であるのはひとえにそれに由来しているといっても過言ではありません。加えて、ハンス・カストルプが出会う、たとえばセテムブリー二を始めとする人物は、そのサナトリウムという閉ざされた環境ゆえ自家撞着を来たしているかのように螺旋状に複雑であり、その言動は必要以上に難解に説明的です。つまり、誤解を恐れずに言えば、読者はハンス・カストルプを視点に、多くの自閉的な人物の言動に付き合うことを余儀なくされ、それをいかに根気よく続けることができるか、その根気がどれだけ持続的で精緻であることができるか、その一点にこの作品をうまく読みうるかどうかがかかっている作品であると言えるのではないでしょうか。しかし、本巻最後3ページのハンス・カストルプの、ストーカーかつパラノイアかつ変質的な長台詞は、600ページに及ばんとする怒涛の細密かつ写実的な描写の果てに、思わず「そんな奴おらへんやろう」とつっこみたくなった一瞬でした。
文庫本は2人訳者
新潮文庫からも文庫本が出ていて訳は高橋さんです。訳者によって印象も異なるので購入時は御注意ください。
豊かな無為
ノーベル文学賞も受賞した、ドイツの大作家、トーマスマンの小説です。
この作品は、ドイツ教養小説の金字塔とされています。(教養小説とは、主人公が様々な経験を通して、成熟に至る物語という程の意味でしょうか。)

内容とも重なるので、長期休暇に読むのにうってつけの本だと思います。
(体は温泉やマッサージで癒して、心はこの本でリフレッシュするという感じで)

僕は、読んだ後に、「豊かな空虚」とでも言うような充実感を味わいました。

この作品に対する批判として、
「書かれる空間が狭く閉鎖的で、長いわりに何も起こらずイライラする。単調でつまらない」
というものがあるかと思います。

確かに物語は、スイスの療養地とその周辺というごく狭い場所での出来事がほとんど全てで、
また結局7年強の時間が小説の中で流れているにもかかわらず、起こることといえば、従来の患者の日常と、新たな患者の登場ということがメインです。(もちろん、最も多く書かれていることは主人公ハンスカストルプの生活です。)

しかし、それらの設定はもちろんマンによって企まれたものであって、下界と隔絶されたスイスのサナトリウムという空間でしか描き出す事の出来ない、
穏やかで単調でありながら緊張感を孕んだ時間の流れを、見事に書ききっていると思います。

我々は「何も起こらない」→「時間の無駄」と感じがちですが、「無為」を肯定的に扱う事も可能である(可能であった)という感慨を持たせてくれたのは、僕にとって新鮮な体験でした。
個人的には、滞在しているうちに、どんどん療養所の「魔の時間の流れ」に魅せられていく、ハンスカストルプの体験が身につまされて感じられました。
(誰でも、ほんの少しお遊びでいるつもりが、のめり込んで抜け出せなくなる経験を持っていると思います。)

好き嫌い・向き不向きのある小説であるということは確かだと思います。
この小説を素晴しいと感じ、擁護したい僕は、(あえて刺激的な事を言えば)読むために、読んで楽しむためには、
ある「資格」のようなものが必要かも知れない小説だと言いたいと思います。

思えば、「魔の山」は、「貴族」という今は無き階層が、まだそれほど遠くない所に感じられた時代に書かれた小説なのです。

時計の針を気にせずにいられない(僕もそうですが)、何かとせわしない現代社会にすむ我々にとって、貴重な時間体験をさせてくれる小説だと思います。




魔の山〈下〉 (岩波文庫)
トーマス・マン関 泰祐望月 市恵
価格: ¥945 (税込)

文庫
出版社: 岩波書店
発売日: 1988/10
ISBN: 4003243374
おすすめ度:5.0
Amazon ランキング: 38076位
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買いです。
ずいぶん時間をかけて読了しました。ペーペルコルン氏の登場で、それまでハンスの教育者的役割を担っていたナフタとセテンブリーニの影が急速に薄くなっていったので、このままハンスが感化されておしまいかと思っていたら、「人物」であるはずのペーペルコルン氏は内在した矛盾によって自らの命を絶ち、そしてナフタもペーペルコルン氏の存在によってより先鋭化された思想の帰結として死に至ります。結局物語の冒頭で「平凡」の烙印を押されたハンスは無事「魔の山」を下りますが、そのハンスも戦火に飲まれ・・・とあらすじを述べるタブーを犯してしまいましたのは、こういった要約を読んだ上でも揺らぐことのない物語世界が本書に構築されていることを確信しているからです。ドイツ教養小説の名で語られることが多いですが、その実読まれることが決して多くはないであろう本書は、その他の多くの、いわゆる「名作」と呼ばれる作品群にあってとりわけ現代と通底した作品であるように思われます。個人的なことですが、読み進めていきながらいつの間にかセテンブリーニに深いまなざしを向けている自分に気づいて、20数年間、田舎の女子高で国語を十年一日のごとく教える我が身が思い返されて、思わず苦笑をもらしてしまいました。
〈雪〉の洗礼
 雪山での体験は、ハンスに何をもたらしたのか? 私は知らない。
 しかし、〈雪〉の白さは、人間の頭の中を、心の中を、真っ白にしてしまうエネルギーを秘めているのではないか。〈雪〉は、人間の心を、頭をリセットする、――それは、象徴的な死ではないか。そうして、象徴的死のあとにやってくるのは、象徴的生だ。
 雪とけて村いっぱいの子供かな 一茶
 太宰治「惜別」を思い起こす。「惜別」の「周さん」(若き日の魯迅)は、「雪も消え」たころ、幻燈事件を最後のきっかけとして、弟ともに、民衆の精神改革を目的とした文芸運動を起こす決意を固めている。雪が消えた、ということはつまり、「周さん」は幻燈事件が起きるまで〈雪〉に囲まれていた、と言い換えることができる。「周さん」の心のうちにあった〈雪〉は、幻燈事件によって、とかされ、彼は新しく生まれ変わったのだ。
 吉田和明氏の説も思い起こす。氏によれば、太宰「富嶽百景」において、主人公〈私〉の〈富士〉に対する認識がマイナスからプラスへと変化するきっかけとして、〈雪〉が登場している、という。一般に「富嶽百景」は、安定期とされる中期における初期に書かれた作品である。太宰は、あるいは、自分の文学史における節目節目で、作品を読みとく鍵として、〈雪〉を登場させたのかもしれない。ことに、「富嶽百景」が、主人公が山に登り、降りるまでの話として読めるとすれば、「魔の山」との相似関係に気づかされるだろう。太宰はあるいは、「魔の山」を意識しながら、「富嶽百景」や「惜別」を書いたのかもしれない。
恐ろしく長い、そして圧倒されるばかり
この恐ろしく長い小説を読みながら常に感じた事は、
本書が非常にヨーロッパというものを意識して書かれているという事である。
小説の舞台となったスイス高原のサナトリウム「ベルクホーフ」自体が、
様々な国々から療養患者が集まるヨーロッパの縮図の様であり、
そこでは様々な言語が飛び交い、各国を代表する登場人物たちが風刺的に描かれている。
主人公の青年ハンス・カストルプを挟んで、人文主義者のセテムブリーニと非合理主義者ナフタによって
延々と繰り返される論争に接して、私はヨーロッパの思想史の深淵にただ圧倒されるばかりであった。
だがそんな二人の論争を沈黙させてしまうペーペルコルンの神秘的な力に主人公は傾倒していく。
このペーペルコルンという登場人物の意味するものは何なのか良くわからないが、
トーマス・マン自身も当時の思想界での論争に行き詰まりを感じていたのだろうか?
本書はその様な難解な話ばかりではなく、主人公とロシア人のショーシャ夫人との恋愛のエピソードもあって、
それはそれで十分に楽しめる。
終り近くの「ひどくうさんなこと」という題名の章では超能力少女が登場して、
主人公の死んだ従兄を呼び出す実験を行なったりするが、
人々がスピリチュアルなものに惹かれてしまうのは、当時の大戦前の不安定な世相を反映しているのかも知れない。
そして現在のスピリチュアル・ブームについても十分注意した方が良いと感じたのだが、どうだろうか?
日本人が全く知らない世界−−例えば172ページを読んでみよう。
 この小説を読んで痛感する事は、私達日本人は、ヨーロッパの歴史など知らない、と言ふ事である。我々が信じて居る書かれた歴史などとは違ふ歴史が、ヨーロッパには有った、と私は、思ふ。ほんの一例だが、この本のこの箇所を読んで欲しい。(以下引用)−−キリスト教徒の二人の子供が謎の死をとげたことから民衆運動と暴動が起こったとき、エリアは惨殺され、燃えさかる彼の家の入口のドアに釘ではりつけにされたのであった。妻は肺を病んで寝ていたが、幼いライブと四人の弟妹をつれて、六人がそろってさしあげて号泣し哀泣しながら国をあとにしたのであった。(本書172ページより)−−これは、登場人物の一人であるレオ・ナフタの父親とその家族の歴史に関する一節で、レオが幼少の頃、東欧で、彼の家族に起きた悲劇を語った箇所である。例えば、ここには、私達日本人が知らないヨーロッパの歴史の一面が描かれて居ないだろうか?−−これは、この小説のそうした側面のほんの一例である。
 悪魔を意識しながら、教会を建設し、革命を実行して来たヨーロッパの精神史を裏側から知る為に、私達は、この黙示と呼ぶべき小説に取り組み続けなければならないだろう。

(西岡昌紀・内科医)
トーマス・マンの時間芸術(下)
筋書はハンス・カストルプというハンブルクの青年が友人が入院しているスイスのサナトリウムに三週間の予定で見舞いに云ったら、どういう訳か自分が病人であることになり、数年もそこで入院する羽目になり、そこでの体験、特異な思想を持った様々な人たちとの出会いにより、精神的な成長を遂げるというものである。小説の技巧に会話、説明、描写という三要素がある。会話は登場人物のやり取りを記述する等速運動である。説明は「あれから3年たった」という記述により、時間を加速させたり停止させたりする。そして描写は登場人物の外面的、内面的な特徴を記述したり、小説の舞台装置を詳述し、その多大な文章量で時間を減速させる。本作品では主人公がサナトリウムに到着した最初の数日の描写が三分の一以上占められており、あとはあっという間に数年が過ぎ、最後は時間の流れそのものが停止する。時間芸術と呼ばれる小説の特性を駆使したマンの職人芸が発揮された作品である。



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