自らの詩才を恃み、妻子を犠牲にしたゆえに虎になってしまった男の話。
硬質な文体から発せられる怜悧な文章が素晴らしい。短い文章の中に人間の業の哀しさが込められています。
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山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)
中島 敦
価格: ¥735 (税込) 文庫 出版社: 岩波書店 発売日: 1994/07 ASIN: 4003114515 おすすめ度: ![]() Amazon ランキング: 82835位 発送可能時期: 通常24時間以内に発送 ![]() |
はたして李徴には、やむにやまれぬ詩作の表現欲求があったのだろうか。
なるほど詩業への執着はみてとれる。
しかし李徴がもっともこだわりを見せたのは、詩人としての名声としか読みようがない。
そもそも立志の動機が「詩家としての名を死後百年に残そうとした」ことであった。
詩業における己の満足度をはかる第一の基準が、詩作それ自体ではなく、
名声という他人の評価であることは明らかだ。
もうひとつ問題に思うのは、
李徴の自己分析にもある通り、詩作のために孤独を求めたのではなく、
傷つきやすい内面を守るために人と交わりを絶ったということである。
これにより、芸術家に限らず人間一般に必要な人生の苦味、酸味を
(それらと表裏にある人生の面白味をも)彼は避けてしまったことになる。
「才能の不足を暴露」される心配こそなかったが、
生涯をかけた詩業において、意味のある失敗や挫折を経験することさえもなかった。
これでは寒々とした手応えのない人生にしかならないだろう。
詩作の内的衝動に欠け、人生の機微に触れることを避けた人間の詩が
「第一流の作品となるのには、何処か非常に微妙な点に於て欠けるところ」があるのはやむを得ない。
しかし、虎と化した李徴の告白はなにやら詩味を帯びている。
今までのような「半ば絶望」するという半端なものではなく、虎になるという<決定的な>絶望により、
否応なく自己を凝視する目と内的な表現衝動を獲得したためではないか。
彼は変身の悲劇により、
無自覚のうちに真正の詩人としての一歩(先のない一歩ではあるが)を踏み出したのかもしれない。
暗澹たる悲劇でありながら、ある種の美しさを感じてしまうのは、
李徴が無自覚のうちに放った詩人としてのはかない煌(きらめ)きのせいではないだろうか。
なるほど詩業への執着はみてとれる。
しかし李徴がもっともこだわりを見せたのは、詩人としての名声としか読みようがない。
そもそも立志の動機が「詩家としての名を死後百年に残そうとした」ことであった。
詩業における己の満足度をはかる第一の基準が、詩作それ自体ではなく、
名声という他人の評価であることは明らかだ。
もうひとつ問題に思うのは、
李徴の自己分析にもある通り、詩作のために孤独を求めたのではなく、
傷つきやすい内面を守るために人と交わりを絶ったということである。
これにより、芸術家に限らず人間一般に必要な人生の苦味、酸味を
(それらと表裏にある人生の面白味をも)彼は避けてしまったことになる。
「才能の不足を暴露」される心配こそなかったが、
生涯をかけた詩業において、意味のある失敗や挫折を経験することさえもなかった。
これでは寒々とした手応えのない人生にしかならないだろう。
詩作の内的衝動に欠け、人生の機微に触れることを避けた人間の詩が
「第一流の作品となるのには、何処か非常に微妙な点に於て欠けるところ」があるのはやむを得ない。
しかし、虎と化した李徴の告白はなにやら詩味を帯びている。
今までのような「半ば絶望」するという半端なものではなく、虎になるという<決定的な>絶望により、
否応なく自己を凝視する目と内的な表現衝動を獲得したためではないか。
彼は変身の悲劇により、
無自覚のうちに真正の詩人としての一歩(先のない一歩ではあるが)を踏み出したのかもしれない。
暗澹たる悲劇でありながら、ある種の美しさを感じてしまうのは、
李徴が無自覚のうちに放った詩人としてのはかない煌(きらめ)きのせいではないだろうか。
彼が最後まで書ききった作品は少ないのですが、その作品はすべてが磨き上げられた璧のよう。
李陵、司馬遷、蘇武。有名な彼らを描いた『李陵』。生き抜く為に、生を意味あるものとするために、彼らが取ったそれぞれの方法とは。
『山月記』。現代の日本人にも当てはまる、「自意識」がテーマの一つになっており、自らの
「猛獣」について考えさせられるであろう作品。
ここで一休み。『名人伝』。すぐに読んでしまえるものの、数回読まなければ完璧に理解できない。多くの意味を含んだ作品。
李陵、司馬遷、蘇武。有名な彼らを描いた『李陵』。生き抜く為に、生を意味あるものとするために、彼らが取ったそれぞれの方法とは。
『山月記』。現代の日本人にも当てはまる、「自意識」がテーマの一つになっており、自らの
「猛獣」について考えさせられるであろう作品。
ここで一休み。『名人伝』。すぐに読んでしまえるものの、数回読まなければ完璧に理解できない。多くの意味を含んだ作品。
この「山月記・李陵 他九篇」の中に入っている小説「悟浄嘆異」。悟浄が師父・三蔵法師についてひとりつぶやくように語る。
***
青白い大きな星のそばに、紅(あか)い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾を曳(ひ)いて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思いだした。常に遠くを見つめているような、何物かに対する憫(あわ)れみをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判ったような気がした。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智(ちえ)や愛情(なさけ)や、そうした数々の善きものの上に師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寝ておられる師父の顔を覗き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
***
涙が出る。
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青白い大きな星のそばに、紅(あか)い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾を曳(ひ)いて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思いだした。常に遠くを見つめているような、何物かに対する憫(あわ)れみをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判ったような気がした。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命(さだめ)をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡(ほろび)の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智(ちえ)や愛情(なさけ)や、そうした数々の善きものの上に師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寝ておられる師父の顔を覗き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
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涙が出る。
この中の山月記を初めて読んだのは高校の教科書で、でした。その時は注釈が多くて、ただ、ただ、読むのが大変な作品でした。あれから25年経ちますが、再読してみて、この物語は自分のことが書かれたのではないかと慄然としました。世間との交流が希薄になり、読書に引きこもっている自分がいる。25年前、まだ何者でもなかったあのころは、まだ限界を知らぬ自己の才能のもと希望に燃えていました。だから何も感じなかった。しかし、25年の間に、人は自分自身と向き合うことを余儀なくされます。全く何者にもなれなかった自分と。プライドばかりが高く、才能のないまさに小人たる自分と。
中島敦が失意のうちにこの作品を書き上げたことは想像に難くありません。しかし、死後かれは名声を得た。70年後の今日まで読み継がれている。もちろん星は5つです。この作品尾を読んだおかげで、人食い虎にならずに済みそうです。人を食った性格は治りそうにありませんが。
中島敦が失意のうちにこの作品を書き上げたことは想像に難くありません。しかし、死後かれは名声を得た。70年後の今日まで読み継がれている。もちろん星は5つです。この作品尾を読んだおかげで、人食い虎にならずに済みそうです。人を食った性格は治りそうにありませんが。
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